女性アクション映画(大人向け)のお寒い状況(後)

前回からの続き)もう一つのやり方は、清純派アイドル映画にしてしまうことである。実際、当時の志穂美悦子には当時そういうイメージがあったし、女性ファンの方が多かったくらいである。エロな雰囲気を作品内に持ち込んだりしたら、そっちのほうが総スカンをくらったこともある。ところがアクション映画である限り、「エロと暴力」のうち、前者はともかく後者については当然のことながら排除することはできない。ヒロインが敵にとらわれ逆さ吊りにされ痛めつけられているにもかかわらず、敵の男のうち誰一人としてヒロインを裸にしようともしない、それどころか性的な視線を浴びせることすらしないという、ものすごく不自然な事態が出来する。もちろんそれを「お約束」だとして了解した観客にとっては十分に楽しめる映画なのだろうけど、戦う女性の抱く心理の綾や襞の描写に何の期待も持てないことについては、ピンキー・バイオレンスと何の違いもない。
 と、そのように考えた場合、かつて戦隊シリーズがなぜかくも魅力的なヒロインを毎年毎年送り出すことができたのか、分かるのではないか。要するに、ここは「エロと暴力」の邪悪さ渦巻く世界だということを、あからさまではないにせよ、ほのめかすような描き方をすることによって、なお正義のために生きるヒロインは、その気高さと清らかさが引き立てられたのである。そして最近の戦隊シリーズにおいて、まともなピンチシーンが描かれなくなっていったことと、ヒロインの魅力が少なくなっていったことは無関係ではないだろう。

 さて、冒頭にかかげたのは『戦う女たち』という本である。これは日本の女性アクション映画についての、八人の論客による論考集である。そして編者は、戦隊ヒロインについて、一章を割こうという発想もなかったようだ。「ジャリ番」としか思っていなかったからだろうけど。そしてその結果として、資料的価値は別にして、考察や論考という点に関しては、何一つ読む価値のない本が出来上がったわけである。戦隊ヒロインをずっと見続けてきたような人間にとっては、だが。
 高尚な文芸作品よりも、大衆に寄り添った低俗な作品のほうこそが映画の王道だ、などと言う評論家や研究者は最近多い。女性アクション映画などという、それ自体いかにも低俗という雰囲気の漂うジャンルを扱った本が出版されるという事実がそれを裏付ける。しかしそういう人たちですら、子供向け特撮ヒーロー番組なんてのは、視野の外にあるようだ。

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