小谷野敦の本はなぜ売れるのか(中編)

 (承前)『ウルトラマンのいた時代』、「序章」の最後の文。

 スーザン・ソンタグに「反解釈」という評論があるが(ちくま学芸文庫)、「解釈」するのではなく、あの時代の雰囲気を表しつつ、ウルトラマンを論じる方法を考えて、本書を書いた。
 ほほう。で、そのソンタグという人はどんなことを言ってんの。と思ったら、何の説明もない。
 外国の偉い学者の名前を出しさえすれば、読者は恐れ入ってひれ伏すだろうと思ったらしい。
 その後も、「西洋古典への親炙」(p.64)だとか、無教養な人間が自分を賢く見せようと無理して難しい単語を使いまくり、しかもそれが誤用ときては大笑いである。この人には、なんと『頭の悪い日本語』などというタイトルの著書があるらしい。自分のことを書いたのだろうか。
 こんな見え透いたこけおどしに引っかかる読者もどうかと思うが、ではなぜ特撮ファンにだけは、この権威主義の手法が通用しなかったのだろうか。
 それは、特撮ファンこそは、「権威」から最も遠ざけられた人たちだからである。
 『ウルトラセブン』の第12話「遊星より愛をこめて」は欠番になっている。そして解除を求めるファンの声も大きくない。それは、被爆者差別は許せないという権威に膝を屈しているからだ、と小谷野氏は考えた。そこに自分が乗り込んでいけばヒーローになれるに違いない。権威に対抗するためには自らも権威で武装することが必要だ。
 だがそれが間違いなのである。
 『セブン』12話の解除をファンが求めないのは、単につまらない話だからである。
 面白いものは面白いと言う。つまらないものはつまらないと言う。それが特撮ファンである。権威の前に頭を垂れ、つまらないものを面白いと言ったりすることは、絶対にないとは言わないが、他のジャンルに比べれば少ない。
 そしてそんな土壌を持った世界に、権威主義の鎧で身を固めた部外者がノコノコやってきて、ピエロを演じる羽目になったというわけである。
 権威主義が通じないこの世界を私は愛する。そして自分がその一員であることを誇りに思う。ただ、いいことばかりというわけでもない。(続く)

Go to top of page