『仮面ライダークウガ』は過去の作品である(その1)

 去年の10月19日に書いたように、東映YouTubeで『仮面ライダークウガ』を見ていた。それが全話完了したのだけれども、なんか頭に浮かんでくるのは戸惑いの感情だけだ。
 わけがわからない。
 「みんなの笑顔を守る」? そんな理由で戦う正義のヒーローなんてあるのか?
 ナチスだって、ドイツに巣食う劣等民族どもを皆殺しにすれば、みんなが笑顔になれると信じて戦ったのだ。少なくとも主観的にはそうである。
 極論を言うなと言われそうだが、しかし、正義とは何か、ヒーローはなぜ戦うのか、というテーマは昭和の御代から連綿と続いてきた議論である。そして「みんなを守りたいから」というだけでは理由としては不十分であるというのは、とっくの昔に決着のついた議論ではなかったのか。ではその不足分を何で補うのか。簡単に答えの出せる問題ではない。だからこそ、ずっとヒーロー番組は暗中模索試行錯誤を続けてきたのだ。それを、いきなり時計の針を逆に回し、そしてそれが「革新的」な作品として評価されているって。
 なにがなんやら。
 「みんなの笑顔を守りたい」? 結構な話ではある。ではその「みんな」には誰が含まれ誰が含まれないのか、そしてそれを決めるのは誰か。その議論をすっとばしたら、単に「自分にとって大切な人みんな」の笑顔を守るため、それ以外の人たちをブチ殺しますというだけの話に過ぎなくなる。そこで話はナチスに戻る。
 ショッカーにしろデストロンにしろ、何か目的を持ち、それに従って行動しているということは、第一話の段階で視聴者の前に明らかにされていた。そしてそんな目的は許せないと思って仮面ライダーは戦っていた。その点、『クウガ』における「未確認生命体」たちは、一体どんな目的や信念を持っているかも、最後までよく分からなかった。五代雄介もまたそのことに大して関心を持っているようでもない。ただあいつらは、我々人類とは異なる存在であり、我々人類の生命と安全を脅かす敵なんだ、という決めつけがあるのみ。ひょっとしたら彼らは地球の先住民族であり、我々人類のほうが加害者なのかもしれない、などという発想は逆さに振っても出てこない。別にそんな話が見たいわけではないが、「私が『クウガ』を作る以前の東映は子供だましだった」なんていう大言壮語は、それくらいの作品を作ってから言え。(続く)

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