戦隊シリーズにおける火あぶり(前編)

 『烈車戦隊トッキュウジャー』は見てなかったのだが、1月14日のエントリのコメント欄で第43話「開かない扉」(1月11日放映)について触れられていたので、その回だけ見たら、生きたまま焼き殺されそうになるというシーンだというのに「熱くなってきた……」とか言う彼らの額に汗の一粒もなく、ぶ厚い防寒着を着たままだというのは、これは一体真面目に撮影しているのだろうか、しかしまあ今のニチアサならこんなもんだろうと大して気にもかけずにいたら、その直後の2月3日に例の「イスラム国」がヨルダン軍パイロットを生きたまま焼き殺してその動画を公開したというニュースに接して考えこんでしまった。
 斬首や銃殺が残酷でないわけではない。しかしやはり火刑というものが持つシンボリックな意味合いは、他の処刑法とは格が違うという気がする。苦痛を長引かせるとか宗教的なタブーとかいう以上の。「汚物の消毒」というイメージというか、相手を人間とは思っていないという宣告というか。
 火あぶりに対して身の毛もよだつおぞましいイメージが存在しているということは、文化人類学的にも根拠があるような気がする。よく知らんけど。だからこそ、『大戦隊ゴーグルファイブ』の第39話「悪魔の人食い絵本」で、桃園ミキが絵本の中に閉じ込められて熱と煙にむせ苦しむシーンからは、この女の子がなぜ平凡な生活を捨てて戦いに立ち上がったのか、その決意や覚悟が強烈に立ち上ってくるわけだし、『トッキュウ』のこの場面も、なんとしても故郷の土地に戻って家族に会いたいというヒカリとカグラの決意を描く絶好のチャンスだったのではないか。それをなんでこんな緊迫感のないシーンにしてしまったのか、理解に苦しむ。セリフで説明したいのであれば、別にそれでも構わない。しかし極限状態における心理を描くつもりがないのであれば、極限状態なんか最初から出さなければいいだろう。(続く)

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