天才の平山亨、秀才の白倉伸一郎
『動画王』8号(1999.2)「平山亨・東映プロデューサー時代を語る」
「どうして普通に、大勢の仮面ライダーが力を合わせて巨大な悪と戦うという話にできないのか。どうしていつもいつも、なんやかんやと理由をこしらえて、仮面ライダー同士で戦わないといけないのか」
毎年春のヒーロー大戦系の映画が公開されると、いつもいつもこういう声を聞く。
おそらく、白倉伸一郎プロデューサーというのは、仮面ライダーの生みの親である平山亨氏の考えに忠実に従っているのではないか。仮面ライダーは孤独のヒーローである。そんじょそこらのヒーロー物とは違うんだ。大勢で力を合わせて戦ったりしてはいけない。
んなこと言っても、昭和の時から仮面ライダーはピンチになると、すぐに先輩ライダーが外国から助けに駆けつけてくるではないか、と反論する向きもあろう。映画では五人ライダーとか七人ライダーとか歴代集合ものばっかりだったじゃないか。どこが孤独のヒーローなんだ。まあ、そうなんである。そういう、二枚舌を何の躊躇もなく使えるってところが、平山氏が天才プロデューサーと呼ばれたゆえんであろう。信念だのポリシーだの、そんなもんで飯が食えんのか。客が喜びさえすれば何でもアリなんだ。そういう精神を骨の髄まで染み込ませた人であればこそ、あれだけテレビの世界でヒット作を連発することができた。
それに比べて白倉伸一郎氏はやっぱりインテリだと思う。『ヒーローと正義』なんて本まで出してるくらいだ。仮面ライダーはと何か、仮面ライダーが掲げる正義とはどうあるべきか、などというコダワリに縛られ、ガツガツしたところが欠けている。白倉氏に対して拝金主義者と批判する声はよく聞くし、本人もなんかそんなイメージを気に入っているような節もあるが、この人のプロデューサーとしての限界は、拝金主義に徹しきれないところだと思う。
地獄へは仮面ライダーだけで行っとくれ
映画と関係づけようという無理矢理感が濃厚に漂う22日の新聞のテレビ欄。実際は普通に戦隊とライダーが放映された。
21日に『スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号』がいよいよ公開された。毎年春のヒーロー大戦が糞なのは、まともに時間をかけていないからである。そしてその過密スケジュールを改善する気が東映に全くない以上、今年もまた糞映画であることは、見なくても分かる。まともな頭を持った戦隊ファンであれば、誰だってそうだろう。宇宙刑事ファンだって同様のはずだ。「見なくては批判できない」などと言っているのは、鳥頭のライダーファンくらいのものである。まさに「賢者は歴史から学ぶ、愚者は経験から学ぶ」。
なぜ特撮ファンは毎年春の大戦映画を観に行きまた同じように憤るのかYU@Kの不定期村というブログを見ていたら、こんなことが書いてあった。
違うでしょ。
「特撮ファン」じゃなくて「仮面ライダーファン」。戦隊ファンまで一緒にしないでほしい。
ネットで感想を拾っていると、「なんでニンニンジャー出すんだ」というのを多く見かける。どうもみんな事態がよく見えていないようだ。
最初から仮面ライダーしか出すつもりはないにしても、いかにも戦隊もライダーも活躍しそうな虚偽の予告の映像やポスターを作り、両方のファンとも劇場に来てくださいという雰囲気を盛り上げるという戦略をとることもできたはずである。いや、そうしなかったことのほうが不思議と言ってもいいくらいだ。「三かくマーク」の東映であれば。では何故そうしなかったのか。戦隊ファンはライダーファンよりもかしこいからである。本当にかしこいかどうかは知らん。少なくとも作ってる方はそう思った、ということだ。同じ手で何度でもだませるのはライダーファンくらいのものである。
つまらない映画に対しては「見に行かない」という形で抗議するしかないだろう。それができないというのであれば、仮面ライダーシリーズはファンと一緒に地獄への道を突き進むがよい。ただし戦隊ファンはそんなものへの同道はご免こうむる。
『ジェットマン』の真の革新性(後編)
(前からの続き) 去年の九月九日に「頭が悪いのが右翼、頭がおかしいのが左翼」というエントリを上げた時は、たまには戦隊とは関係のない話でもしようかというつもりだったのだが、まさか話がつながるとは思っても見なかった。
右翼も左翼も随分と悪いニュアンスのこびりついた言葉になってしまったが、本来の政治学の用語としては、理想を求めて現実を変革するのが左翼であり、現実に基づいて理想を定めるのが右翼である。そして「原因としての正義」が左翼、「結果としての正義」が右翼に相当することは言うまでもない。そして1990年代前半を境に、スーパー戦隊シリーズにおいて「原因としての正義」を掲げた作品が衰え、「結果としての正義」を掲げた作品が台頭、ただしその正義も以前ほどの強度を持ってはいない。それが『ジェットマン』の過小評価にもつながっているのだが、そしてこれは日本の現代史とぴたりと一致する。1991年、つまりソ連崩壊の年である。
かつて日本の論壇や学問の世界では左翼の天下だった。そして1991年にマルクス主義の権威が完膚なきまでに叩き潰される。では右翼・保守がそれに取って代わるかと思ったら、全然そうはならなかった。なぜなら少なくとも戦後の日本に限っては、保守思想などというものは存在しなかったからである。それは単なる現状追随主義でしかなかった。戦後、左翼思想は誤った理想をふりかざして戦い、大変な被害を日本にもたらしたことについては大いに批判されなくてはならない。しかし右翼は戦いを担うことすらしなかった(だから被害も出さなかった)。
かつてのマルクス主義者のような、頭の中でこしらえた正義に現実を無理矢理従わせようと戦うのではなく、現実に足をつけながら理想を追い求めるという生き方が、現在ほど求められている時代はない。しかしその展望はなかなか見えてこない。それは現在スーパー戦隊シリーズで、五人の戦士が何を信じて戦っているのかイマイチ視聴者として伝わってこない現状とダブる。
それにしても、私は戦隊の話をしているつもりなのに、なぜいつもいつも現代史の話になってしまうのだろうか。
『ジェットマン』の真の革新性(前編)
また最近サイトの更新のほうが御無沙汰になっているが、サボっているわけではなくて、また大幅に書き直すことになった。昔の価値観を基準にして現在を裁断する(あるいはその逆)は、歴史家として最も警戒せばならないものではあるが、無意識の贔屓を完全に排除することは至難の業である。
ヒーロー性重視の昔の作品と、人間性重視の今の作品とで「どちらが上というわけではない」とは書いた。しかし戦隊マップの三つの頂点のうち二つをヒーロー性重視、残りの一つを人間性重視とするのはやはり公平とはいえない。三角形はやめて四角形にしたほうがよさそうだ。しかし今の戦隊マップだって作るのに三年半かかったというのに、これでまた書き直すとなると、一体完成するまで何年かかることになるのやら。
これというのも、『鳥人戦隊ジェットマン』に対する評価が正当になされていないことに原因がある。
昔は、正義のために戦うということはこういうことだ、というのが最初に決まっていた。そしてそれに合わせてメンバーを集めたり、司令官を選任したりする。それに対してジェットマンでは、「この五人でチームを組む」というのが最初に決まっている。バードニックウェーブを浴びた者しか戦士になれないから、もう選択の余地がない。小田切長官としては彼らを鍛え、自分のやり方に従わせようとはするのだが、そもそも彼女自体に素人を率いた経験などない。そして五人や小田切は自分のやり方でベストを尽くして戦おうとし、その結果として「正義のための戦い」が行われるのである。つまり、正義とは何かが最初に決まっていて、それに合わせてチームを作るのと、最初にチームがあって、それに合わせて正義が決まるのとの違いである。そしてジェットマン以降の作品は、多かれ少なかれ正義というものが、原因ではなくて結果として描かれるようになった。まさに戦隊におけるコペルニクス的転回。だがその革新性が正当に評価されることは余りにも少ない。「原因としての正義」が描けなくなったから、仕方なく「結果としての正義」に頼るようになった、みたいな捉え方をされることが多く、私も知らず知らずのうちに、そのような考え方をしていた。(続く)
戦隊史学基礎(理論編)
ミロのヴィーナスと『相棒』
3月18日に放映されたテレビ朝日のドラマ『相棒』第13部の最終話が面白いことになっているらしい。『相棒』ファンが「こんな最終回ってあるか!」と悲憤慷慨している一方で、それを傍から見ている東映特撮ファンが
「なんだ、いつもの東映か」
もしミロのヴィーナスに両腕があったら、世界的な美術品ではなかったであろう、なんてことがよく言われるが、確かにそのとおりだと思う。ないからこそ「本当は両腕はどうだったのだろう」と見る者の想像力をかきたてる。しかしそれを勘違いして、なるほど芸術作品というのは完成度が低いほうが名作になるんだなと、最初からわざと完成度の低い作品を作ろうとする人も生じる。まあ今の東映がそうなんだが。だから、話の辻褄なんか無視して視聴者をアッと驚かせることが番組制作者としての使命だと思いこみ、しかし視聴者としては「またその手か」と驚きもしない。いわゆる「パターン破りのパターン化」というやつ。
仮にミロのヴィーナスに両腕があったまま出土したとしても、やっぱりそれなりに高い評価を受ける美術品であったことには間違いない。きわめて緻密で精巧な出来ばえの作品が、九割だけ完成しているからこそ、残りの一割に対する想像力がかきたてられるのであって、粗雑な出来で九割の完成品なんか見て、誰が残りの一割を見たいなんて思うものか。
しかしこういう、仮面ライダーの映画でさんざん使い古され見ている方も全然驚かなくなった手法を、いまさら一般向けドラマが後追いとは。昔は一般ドラマがジャリ番を差別していたが、今はもうどっちが上か分からんな。
『ヱヴァ』が完結しない理由(わけ)
安藤健二『パチンコがアニメだらけになった理由(わけ)』
2015年である。
いまだに『ヱヴァンゲリオン新劇場版』の完結を待っているファンの人がいるらしい、ということを最近知って、さすがに驚いた。「社会現象」とまで言われた1996年の『エヴァ』ブームをリアルタイムで体験した人間としては、『ヱヴァ』なんかに興味を持てるはずもなく、だから見てもいないんだけど、ただ余りにもかわいそうだから、教えといてやろうか。
そもそもなぜ庵野秀明氏が新劇場版なんか始めようと思ったのかというと、1997年に投げっぱなしにする形で『エヴァ』を終わらせたことに対して、ずっと後悔の念にさいなまされ、再びきちんとした形で完結させたいという執念を燃やし続けてきた、というわけでは全然ない。パチンコの金が入ったからである(ということがこの本に書いてある)。新劇場版のための資金を捻出するために色んなところに頭を下げて必死になって金をかき集めたわけでもなく、だからちょっと自分の思い通りにならないことが起きたらすぐにまた投げ出すのもまた最初から決まっていた。まさに Easy come, easy go.
しかもアニメ関係者というのは、作品がパチンコになって金が入ってくることに対して、やはり後ろ暗い思いをしている人は多いらしい(ということもこの本に書いてある)。もともとは知的ゲームという側面もあったパチンコだが、今じゃ脱法賭博以外の何物でもない。『エヴァ』のパチンコがヒットしたというのも、新しい確率変動システムをいち早く取り入れたおかげであって、これもまた別に『エヴァ』という作品の力があったからではない(ということもまたこの本に書いてある)。正々堂々と手にした金でないものを注ぎ込んで作った作品だという意識があるから、仕事に熱が入らないのも当たり前。
もちろん世の中には、汚い手段を使って金を稼ぐことに何の良心の痛みを感じない人もたくさんいる。庵野秀明氏がそういうタイプの人間ではなかったということを、ファンは喜んでもいいと思うのだが。
白倉伸一郎の降格(後編)
(前からの続き)さて結論である。
白倉氏に対しては、『アギト』や『龍騎』を作っていた頃は天才だったが今はカス、と評価する人が多いようだ。しかしそれって「司馬史観」と同じ気持ち悪さを感じる(明治の日本は良かったがそれ以降ダメになった、という例のやつ)。仮面ライダーを、「大人の鑑賞に堪える」高いドラマ性を持った作品としてヒットさせたということと、粗製濫造して衰亡に導くということとは、連続した流れの上にある。分けて考えることはできない。今まで長々と論じてきたのは、そういうことである。
東映が今まで時代劇や任侠物で延々と続けてきたパターンに、仮面ライダーを乗せることに成功した。そういう意味では白倉氏は間違いなく秀才プロデューサーだったであろう。そして、東映という会社のやり方そのものを変えることはできなかったという点では、秀才どまりであったとも言える。
平成仮面ライダーが始まった最初の三年くらいは良かった、と言っている人は多い。あの頃の作風に戻って欲しいなどという望みを持っているファンもいるだろうが、しかしそんなものはもう捨てたほうがいいと思う。既にサイクルは一周した。
今度の『スーパーヒーロー大戦GP』、戦隊は本当に申し訳程度にしか出てこないらしい。これはもう東映としても本気で仮面ライダーを使い潰すことを視野にいれ、せめて戦隊だけでも切り離して延命させようと考えているのではないか、ということを私は割と本気で勘ぐっている。もともと仮面ライダーとスーパー戦隊というのは歩んできた歴史も違うしファン気質も違う。歴代戦隊集合映画なんてのも、明らかに『ディケイド』に無理矢理おつきあいさせられたようなものだ。戦隊シリーズは昔から日の光を浴びることなく延々と続いてきたんだし、今後も細々と続いていけばいいということに、大方の戦隊ファンは同意するだろう。
しかし、一度は華やかなスポットライトを浴びてしまったライダーファンは、再び日陰者の立場に戻ることに我慢できるかどうか。
最後に白倉伸一郎先生の2013年3月26日のツイートから。
「龍騎以降は仮面ライダーじゃないから見てないけど」「30分のCMでしょ? だから見ないけど」という人にライダーの取材を受ける。10年前なら噛みついてたな〜。今は普通にニコニコ流せる。これって二通りの解釈ができるな。
勝利宣言ととるか敗北宣言ととるかは読む人次第、か。
白倉伸一郎の降格(中編その2)
(前からの続き)
春日太一『仁義なき日本沈没――東宝vs.東映の戦後サバイバル』
『スーパーヒーロー大戦GP』の試写も無事に行なわれ、行ってきた人の感想によれば、まあ例年のような内容らしい。
いよいよ1960年ごろの東映時代劇みたいになってきた。
「様式美」と言えば聞こえはいいが、単に進取の気性を欠いていただけの話。ワンパターンの時代劇を大量生産し、それでも客が入るからと調子こいていたら、黒澤明のような全く異質な天才が現れるや、あっという間に時代遅れになってしまい、衰亡に向かって一直線(いわゆる三十郎ショック)。東映は時代劇そのものを捨てて任侠路線に活路を見出し息を吹き返すのだが、そこでもやっぱり全く同じパターンを繰り返す。そしてその後の実録ヤクザ、異常性愛……。全部同じ。
これが東映という会社の体質かというと、それもまたちょっと違う。東宝もまた同じだからだ。マンネリ大量生産→飽きられる→別の路線を開拓、この繰り返し。出し惜しみしながら続ける、ということができない。これは映画業界の宿痾みたいなもののようだ。
映画作りというのは博打的な要素が非常に強い。一作作るのに金はたくさんかかるし、それがヒットするかどうかは実際に公開するまでわからない。だから、どの程度の客が入るかが、ある程度予想できる「シリーズ物」はものすごく貴重なのである。そしてシリーズの延命が自己目的化して、内容よりも話題作りが優先となり、作ってる方も見ている方も楽しくない作品が延々と作られる、などという事態が容易に生じる。
映画というのは作品であると同時に商品である。どちらが欠けても成立しない。だが商品性は簡単に暴走して肥大化し、作品性を窒息させたりする。そうなると商品性もまた衰え、ジャンル自体が潰える。アニメや特撮の場合は、ジャリ番という差別意識がそれをある程度食い止める役目を果たしていたが、今や仮面ライダーもスーパー戦隊も、もはや閾値を突破したような感じがする。もはや後戻りはありえない。(続く)
白倉伸一郎の降格(中編)
(前からの続き)
東映がピンチに陥ると、ライダー、プリキュア、戦隊はいつでも駆けつけてくれます。今やすっかり有名になった、東映の岡田社長(当時)の発言である。2009年1月29日、『仮面ライダー電王』の劇場映画第四弾の製作が発表された場でのこと。
あの時、ファンは真剣に怒りの声を上げるべきだった。一般映画で作った赤字をなぜアニメと特撮が補填しなければならないのか。しかし、ファンの中にはこの発言を喜ぶ者さえいた。岡田社長(当時)の狙い通りに。
無理もないことである。昔はアニメや特撮が、どれだけ金を稼いで東映に利益をもたらそうが、まったく評価されなかったからだ。ではなぜその風潮が覆ったかというと、一般映画が全然ヒットしなくなったからである。要するになりふり構っていられなくなっただけのことで、「仮面ライダーやスーパー戦隊って、意外と面白いし、しっかりと作ってあるんだなあ」という認識が社内で広まったからでは全然ない。もともと東映というのは、芸術だの文化だのいうよりも、とにかく金を稼いでくるのがいい映画で稼いでこないのは悪い映画だという風潮の割と強い会社だったが、それが一層強まることによって、ジャリ番に対する差別が解消されたのである。だがそれは、アニメや特撮が以前にも増して商業主義にさらされることをも意味した。そして岡田社長の下でライダー・戦隊映画の粗製濫造が進行する羽目になる。
今から思えば、いわれなき差別を受けていたことが、特撮映画のクォリティの低下に歯止めをかけていたのだった。なんという皮肉。
仮面ライダーという作品の素晴らしさを社内社外に知らしめたい、そしてジャリ番と馬鹿にする風潮を覆したいという思いが、白倉氏ら平成ライダーのプロデューサーたちにあったことは疑いえない。そしてその熱意と努力は実を結んだかに見えた。だがそれは結果的に、仮面ライダーの質を低下させるための露払いの役をも果たした。作品としての質が下がれば商品としての質も下がる。興行収入が減少傾向に転ずるや、岡田社長と白倉企画製作部長も退任させられることになる。(続く)
白倉伸一郎の降格(前編)
キネマ旬報 2015年3月下旬 映画業界決算特別号
去年の6月28日に、白倉伸一郎氏が企画製作部長(他に二つ兼任)からテレビ第二営業部長に異動になったというニュースが出た時に、これは降格かそうでないのかががネットでも盛んに議論になっていたが、社員でもなければどっちが格上の役職なのかも分からないので、結局は結論の出ないままに終わった。しかも、それを最初に報じた文化通信のサイトが「第一営業部」と誤記していたので余計に混乱した。ウィキペディアは今でもそうなっている。ついでに「制作」ではなくて「製作」。
で『キネマ旬報』の最新号に、東映に関する記事が二つほど載っていたら、企画製作部長というのは劇場映画のラインナップ全体に責任を持つような、なんか無茶苦茶重要な役職らしい。ということは降格なのか。といっても相も変わらず仮面ライダーに関係する部署にはいるらしく、ライダーファンにとってはどうでもいい情報のようだ。これを機会に何かが変わるわけではないのだから。
ただ、私のように昔から東映特撮を見続けてきた人間にとっては、どうにもやるせない気持ちになる。
昔から東映という会社では、ジャリ番は低く見られていた。ファンはそれを当然くやしく思っていた。子供向け番組で実績を上げ、一般向け番組で実績のない人間が、その両方を統括するような部署の長に昇進するなどということは考えられないことであったし(逆は当然問題ない)、だから白倉氏がトントン拍子で出世し、そのような重要な役職に上り詰めたことは、特撮ファンとしては当然うれしく思うべきことのはずだった。
ところが当の白倉氏は、この人の書いたものとかインタビューとかから判断するんだが、一般向けの映画を作ったりすることに、何の興味も関心もない人である(というか、多分仮面ライダー以外には何の興味もない人だと思う)。そんな人が大層な肩書を与えられて、やりたくもない仕事をさせられれば、大して成果をあげられないのは当然だし、その挙句に責任とらされて降格って、何じゃそりゃ。ふざけんな。
我々は子供向け作品に対する差別がなくなり、一般向け作品と対等に扱われる日が来ることを願っていた。しかし、こういう事態を望んでいたわけでは決してないはずなんだが……(続く)。
小林朝夫の大暴言
我々が若かった頃と比較して、今の特撮ファンをうらやましく思うのは、情報量の多さである。
そして我々が若かった頃と比較して、今の特撮ファンをかわいそうに思うのは、やっぱり情報量の多さである。
昔だって、特撮のスタッフやキャストの中には、こんなジャリ番は踏み台にして早くマトモなドラマに出たい、などと腹の中では考えていた人もいたことであろう(多分)。ヒーロー番組に出るのは子供からの夢でした、などと口先では言いながら。そしてインタビューを受けて本音が思わずポロッと出ることだってあったに違いない。しかしそんなものは活字になることはなかった。編集者がチェックをしていたからだ。もちろん今でもチェックはしているだろうけど、情報量が桁違いだから見逃すことも多い。しかも、ブログやツイッターのような無検閲メディアまである。
かつて特撮ファンはスタッフやキャストに対して大きな憧れを持つことができた。しかしそれは単に情報量が少なかったがゆえに、幻想が成立する余地があったからに違いない。
なんでこんなことを断言するのかというと、2011年2月17日に小林朝夫氏がツイッターに以下のようなことを書いたことがあった。小林氏というのは、『太陽戦隊サンバルカン』(1981年)でバルパンサー・豹朝夫を演じた役者のことである。
海賊戦隊ゴーカイジャーのプロデューサーにギャラいらないから出演させてくれるように交渉中です、、これは明らかに暴言であり、現在の戦隊のスタッフやキャストに対する侮辱発言である。
どう暴言なのか分かりづらいという人もいるであろうから念の為に説明すると、たとえて言えば、かつてプロ野球の名選手で、引退して二十年も経ち、ブクブクに太ってもう全然アスリートの体ではなくなった人が、球団創設何十年のメモリアルイヤーだということで、無報酬でいいから公式戦に出してくれなどと言い出したようなものである。
今の戦隊シリーズは素人レベルだ、と言い放ったも同然の発言である。
これは『ゴーカイジャー』のファンは怒るだろうなと思っていたら、そんな声は全然上がらなかったし、それどころか「感激です」なんてことを言うやつまでいた。もはや今のファンは、特撮番組に対して何の憧れも幻想も持っていないらしい。こういう状況はファンにとって幸福なのか不幸なのか。
「ジャリ番」の誇りはどこへ行った
『ニンニンジャー』に関して補足。役者の演技力の成長を見守るのもまたスーパー戦隊を見る楽しみの一つである、などと言う人達がいる。特に今年は例年に比べて演技力が低いこともあって、そのような声が特に多く見受けられる。
そのような楽しみ方をしたい人はすればよい。それは人の勝手である。しかしそれは決して本来の楽しみ方ではない。なぜならスーパー戦隊は子供番組だからだ。子供は今年のヒーローはなんかダサいなあと思えば何の躊躇もなくチャンネルを変える。成長を見守るなどという楽しみ方をするのは「大きなお友達」だけだ。
「ジャリ番」という言葉がある。テレビ業界には昔から、子供向け番組を大人向け番組に比べて格下と見なす風潮が根強くあり、その蔑視感情から生まれた言葉である。それに対して実際に子供番組の制作に携わっていた人たちはどう思っているか。やはりその通りで、大人向け番組に早く異動したいと思いながら嫌々仕事をしている人たちもいるし、その一方でいや子供番組のほうが大人番組よりも難しく、それを作ることを誇りに感じている人たちもいる。どちらが正しいかというと、まあどっちも正しい。ものすごく大雑把に言うと、理屈で納得させる部分においては、大人向けのほうがハードルが高く、感覚に直接訴えかける部分においては、子供向けのほうがハードルが高い、ということになろうか。
仮面ライダーでもウルトラマンでも、「大人の鑑賞に堪える作品を作りたい」などということが言わたりする。それは、子供に向けた部分もしっかりと作りながら、なおかつ大人向けの部分も疎かにしたくないという意味だったはずだ。つまり普通に番組を作るのに比べて二倍の労力が必要になる。しかしそれだけ手間ひまかけた作品は、子供を夢中にさせ、そしてその子供が成長し大人になってから再び見返した時に、やっぱり面白いと思える作品になっているはずだ。
子供向け部分をいい加減にしていいという意味ではないんだぞ。
『手裏剣戦隊ニンニンジャー』第1・2話だけ感想
現場ではたくさん怒られます。たとえばラーメン屋に行ったとする。そしたら店の奥から「麺は茹でればいいってもんじゃない」「味付けがちがう」「火力が弱い」「スープにゴミが浮いてる」などとシェフを叱る声が聞こえてきたらどうするか。
「ただセリフを言っているだけ」「立ち位置が違う」「それじゃ画面に映ってない」「口が回っていない」「挨拶がダメ」「ちゃんと聞こえない」「瞬きが多すぎ」「表情が出来ていない」「もっと人の芝居を見なさい」。これまでの一生分か、10倍、時には怒鳴られたりも。
(中略)
スタッフの深い愛情あっての現場です。日々成長なのです。
(東映公式サイト『手裏剣戦隊ニンニンジャー』第三話TOPICS)
そんな店には二度と行くまいと思うだろう。
シェフが修行中の身でラーメンがまずいのは仕方ないにしても、そういうことは客に聞かせるなと。いかにも自信満々の顔つきで、当店最高の品をお持ちしましたという態度を嘘でもいいから客の前でとれないのであれば、そんな店はたたんでしまえ。
『ニンニンジャー』の役者の演技があまりにも評判悪い(特に赤)。それに対して、今は上達を見守るべき時期だ、と擁護する意見もまた盛んである。しかし番組を見る側が言うのと作る側が言うのとでは、同じことを言ってもその持つ意味は大違いだ。武部直美プロデューサーは、こんな成長途上の未熟な演技を視聴者にお見せして申し訳ないという思いに駆られているわけでもないらしい。要するにこれは、今のスーパー戦隊にとって、素面の役者によるドラマパートは売り物ではありませんと言明したに等しい行為である。
じゃあ何が売り物なのか。スーツアクターによるアクションと、巨大ロボやメカの特撮パートである。それらに関しては確かに今年もクォリティの高さをさっそく見せつけている。ギミックに凝った変身アイテムや武器、マシン、巨大ロボ。子供たちに玩具をたくさん買わせるぞという熱意には毎年毎年圧倒されそうになる。『パワーレンジャー』として、全世界に発信されているという事実の持つ意味も大きいのだろう。世界中の子供達が自分たちの作る作品を見てくれているんだと思えば、JAEや特撮研のスタッフ一同沸き上がってくる気力も並々ならぬものがあるに違いない。
ドラマパートは全部アメリカ人が撮り直すけどね。
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