『カーレンジャー』の最初のつまずき

 ジェットマンは「仕方なく選ばれた戦士」か?に引き続き、戦隊の分類について。
 『鳥人戦隊ジェットマン』は確かに当時の戦隊シリーズにおける常識の壁をすり抜けることに成功したが、壁を打ち壊したわけではなかった。戦隊を、どういう方針に基づいて戦うかに着目して「長期ビジョン系」と「臨機応変系」に分類した時、前者が正当で後者が異端である、という常識がある。『ジェットマン』でもプロが戦えないから仕方なくシロートが戦う、という設定にしており、シロートの方がプロよりも優れているという積極的な理由があったからシロートが戦ったわけではない。
 そしてそれが『激走戦隊カーレンジャー』の最初のつまづきの石にもなった。
 カーレンジャーの五人は伝説に選ばれた戦士である。ではその伝説とやらが、いつの時代から、どんな人々によって、そして彼らのどのような思いを込めて伝えられ続けてきたものなのか、作中で説明が一切ない。なんでこんな設定にしたのだろう。なんだかよく分からない理由でいつのまにか巻き込まれて戦士にされてしまったという設定にしたほうが良かったんじゃないのか。そのほうが『カーレンジャー』という作品の雰囲気にも合致していたように思う。
 結局は、『カーレンジャー』のような、革新的な意欲に満ちた作品にして、戦隊シリーズの旧来の常識から逃れることができなかったということなのだろうか。
 私は不思議コメディーシリーズは少ししか見たことがないが、あまりのシュールな世界に目の回る思いをした記憶がある。『カーレンジャー』では浦沢テイストがかなり薄めであることは否定しがたい。浦沢テイストと戦隊テイストで化学反応を起こすつもりが、お互いの持ち味を殺していたようでもある。成功していれば、今頃は『カーレンジャー』は戦隊シリーズの救世主であり新しいスタンダードになっていたに違いない。原因はやはりプロデューサーだろうか。最初に「こういう作品にする」と細部にわたって全部ガチガチに決めてからでないと何も始められない人だからなあ。まさに「長期ビジョン系」というわけか。『カーレンジャー』といえば「浦沢義雄の作品」という論じ方ばかりがなされているが、「高寺成紀の作品」という論じ方を少しくらいはしてもいいと思う。

Go to top of page