「女リーダー」というまやかし

 『忍者戦隊カクレンジャー』を見返していてつくづく思ったのだが、ニンジャホワイト・鶴姫ってのは本当に名目だけのリーダーだったのだな。
 男四人は昨日今日戦士としての使命に目覚めた連中ばかりである。だから、カクレンジャーのリーダーとしての使命を代々受け継いできた家系の出身である鶴姫が、引っ張っていかなければならないはずなのだが、体力は仕方ないとしても忍術の腕前、さらに判断力や統率力といった面でもサスケに劣るのはどうしたことだ。実質的なリーダーは最初からサスケである。白面郎登場以降はもう論外。いったいなんのためのリーダー設定だったのやら。
 『未来戦隊タイムレンジャー』のリーダーがタイムピンク・ユウリなどと言い出したのは誰だろうか。作中ではそんなことは一言も言われていない。第30話では五人の意識ではリーダーは決まっていないと描かれているし、実質チームを束ねているのはタツヤである。ユウリは人付き合いが苦手なタイプである。そこがユウリの魅力なのだが、しかしそんなタイプにリーダーがつとまるわけないだろう。
 戦隊シリーズは男社会である。そういう批判をされることがある。だからそれをかわし、いや女がリーダーをつとめた作品もありますよ、などという姑息な言い訳をするために、無理矢理ユウリがリーダーだったことにされているような気がする。
 だが、戦隊が男社会なのは当たり前ではないか。子供番組的オブラートにつつまれてはいるが、あくまでも戦隊は「軍」なのである。男社会でない軍などあるわけがない。
 戦隊内における男女関係とはどうあるべきかについて根源的な考察もなく、単に世の母親やフェミニストに媚を売って批判をかわそうということしか考えていないから、こういう変なことになる。
 そういえば昨年度は『侍戦隊シンケンジャー』で女レッドの登場が騒ぎになっていたけど、あれはどうなったのだろうか。(実はまだ見ていない。)

昔のヒロインの似顔絵を描くことの困難さ

 最近のヒロインだと、すぐに写真集が出る。その写真というのは、専門のカメラマンがその女優が最もかわいく見えるようにプロのテクニックを用いて撮ったものである。その中から適当に一つ選んで(まあできるだけ描きやすいのがいい。左斜め三十度なんてのがあれば最高だ)、それを見ながら描けば、まあかわいい絵が描ける。楽なもんである。
 しかし昔のヒロインだとそうはいかない。
 たとえば、カレン水木にはロングヘアのイメージを持っている人も多いと思うが、全35話のうちロングだったのは最初の8話だけである。「これは似合わない」ということに作っているスタッフもすぐに気づいたということなのだろう。(ちなみにジャッカー電撃隊キャスト鼎談によれば、あれはカツラらしい。)
 じゃあなんでロングのイメージがあるのかというと、歴代戦隊のヒロインの写真集が出るとき、その時期の写真しか載ってないからだ。私はそんな絵は描きたくない。やはりそのヒロインが最もかわいい髪型をしていた時期のを描きたい。だから映像を見て描くことになる。そのヒロインがもっとも魅力的に映る角度、もっとも魅力的に映る表情はどれか。そういうのも全部自分で判断して描くことになる。
 非常にめんどくさい。
 汀マリアも前髪おろしていた時期のほうがかわいいと思うんだが、これも写真集への収録は絶望的ときている。
 昔はろくにスチル写真なんか撮ってなかったからな。特撮ヒロインなんかで商売になるなんて発想自体がなかったし。

 よく、掲示板とかブログとかで、歴代戦隊ヒロインの容姿の品定めをし、ランクつけたりしている人がいる。
 大いに結構だが、やるのなら同じ条件でやれよな。

強すぎたがゆえに……(カレン水木論)

朱に交わっても赤くなるとは限らない(ダイアン・マーチン、汀マリア論)

忍者キャプターはスーパー戦隊シリーズに入るのか

 『忍者キャプター』は昔戦隊シリーズに入っていたらしい。
 という話は以前から小耳に挟んだことがあって、でもそれってすぐに倒産したような、無名の出版社がいいかげんな本を出して、そんなこと書いてただけなんじゃないの?具体的な書名は分からないの?と思って、前々から探していたら、これか。
忍者キャプター
 ケイブンシャの大百科159。書名は『科学戦隊ダイナマン スーパー戦隊大百科』。発行は1983年8月25日。表紙に「8大戦隊」と銘打って、忍者キャプターの文字が見える。
 ケイブンシャの大百科とは、かなり有名だったシリーズだ。
 『科学戦隊ダイナマン』放映当時、ある雑誌には「スーパー戦隊シリーズ第七弾」、別の雑誌には「第五弾」と書かれていて(もちろん両方とも東映認可である)、この上「第八弾」とうたわれている本が出てきても、まあ不思議ではないわな。
 昔から東映という会社は戦隊シリーズについてぞんざいな扱いしかしてこなかったが、しかしある意味こんな時代がなつかしいという気がしなくもない。
 スーパー戦隊シリーズというブランドに、何の価値も認めてこなかったし、上の人が「そろそろ止めようか」といつ言いだしてもおかしくなかった。だからこそ、一年一年、おもしろい作品を作るために全力で勝負しなければならなかったし、見ていて緊張感が伝わってきた。

 ブログをいろいろ見ていると、今年の『天装戦隊ゴセイジャー』はつまらない、と書いている人たちをたくさん見かける。で、そういう人たちは続けて
 「早く来年にならないかな」
 来年も戦隊シリーズが続いているということは、最近の若い人たちにとっては、自明のことなのね。

スーパー戦隊シリーズの第一作は何か

石ノ森章太郎って『ジャッカー電撃隊』で何したの?

UFOレンジャー
 図は藤子・F・不二雄『ドラえもん』の「ハロー宇宙人」である。のび太とドラえもんが夢中になっているテレビ番組「UFOレンジャー」、そのデザインが『ジャッカー電撃隊』とそっくりだというのはマニアにとっては有名な話だ。
 しかしこれ、どっちが先だったのだろう。「ハロー宇宙人」が発表されたのが『少年サンデー増刊』1976年8月10日号。『ジャッカー』は1977年4月からの放送で、デザインはそれより前に出来上がっていたはず。微妙なところだ。石ノ森氏が藤子氏に教えたのか、藤子氏が石ノ森氏に教えたのか、それとも『ゴレンジャー』の次として、顔にトランプなどというアイディアは、誰でも思いつくような安直なものだったのか。
 人間であって人間ではない、異形のヒーローというテーマは石ノ森章太郎氏が生涯かけて追求したものだったはずだが、『ジャッカー』からは石ノ森氏のやる気のなさばかりが伝わってくるのはどうしたことか。『マンガ家入門』では『サイボーグ009』を題材にとってストーリーの作り方をマンガ家志望の読者たちに説明している。そこでは、善人の科学者によってサイボーグを作るというアイディアを「平凡」と退け、悪の科学者たちによって無理矢理サイボーグにさせられた主人公たちが反乱を起こすというアイディアを採用する経緯が描かれている。つまり、『ジャッカー』は平凡なアイディアの作品だ、と。
 「名ばかりの原作者」の可能性も考えられるが、『ジャッカー』についてはろくな資料がない。もしも石ノ森氏が本腰を入れて取り組んでいれば、いまでもスーパー戦隊シリーズは原作者として石ノ森氏の名前がクレジットされていたのだろうか? 平成仮面ライダーのように。

 悪の勢力によって特殊な力を身につけさせられた主人公たちが、その力を使って悪と戦うという、石ノ森氏が好んだテーマが戦隊シリーズで実現したのは『超新星フラッシュマン』(1986年)である。当時すでに戦隊シリーズは石ノ森氏の手から離れていたが、氏はこの作品を一体どのような目で見ていたのだろうか。

CG特撮のどこがいけないのか

 現在も(戦隊=引用者注)シリーズは楽しんで観ていますよ。「オプティカルの合成カットは1話につき3箇所まで」みたいな制約があった当時からすれば、今の画面は夢のような出来だと思います。
 『大戦隊ゴーグルファイブ』のDVDの第五巻収録の解説書には、スタッフの一員であった久保宗雄氏のコメントが載っている。この「今の画面」というのは、コンピュータ・グラフィックス(CG)に代表される、進化した現在の映像技術を使った画面のことを言っているのであろう。今の戦隊シリーズとは何の関わりもない久保氏が何を考えようが自由だが、現在の戦隊シリーズのスタッフの人たちまで、まさかこんな「夢のような出来」などと考えたりしているわけではあるまいな。
 いくら映像技術が進化したところで、それを使うのは人間である。ビルが爆発炎上して火の手があがる、破片が舞う、海での戦闘での水しぶき。空気や水の表現には、撮影する人間のセンスが問われる。しかしCGという文明の利器のおかげで、映像センスがゼロの人間でもそれなりの絵が撮れるようになった。「こんな高い技術を使って、こんな低いセンスの絵を撮るとは!」というギャップに視聴者はうんざりするのだ。
 今の作品に比べたら、確かに昔は貧弱な技術しかなかったし、ひどい映像も多かった。しかし見ているほうとしては「そういうもの」だと思ってから、別にひっかかりも感じなかった。ひどい絵については脳内で補えばいいのである。CGを使った画面はなまじ絵が小ぎれいなだけ、視聴者に脳内補完を許さない。イライラするだけだ。
 古参の特撮ファンにはCGを嫌っている人が多い。しかし彼らだって、一流のセンスを持った人間がCGを使ってすばらしい映像を見せてくれれば何の文句もないはずだ。三流のセンスしか持ってない人間がCGを使ってそこそこの絵を撮り、自分では一流の映像を作った気でいる。それが問題なのだ。

ぶかぶかのゴレンジャースーツの性能は

 ゴレンジャースーツは今見ると「ぶかぶか」という印象がある。
 スーパー戦隊シリーズで、強化スーツに光沢がつき、体にピッチリと張り付くようになったのは『科学戦隊ダイナマン』(1983年)からであるが、この材質の変化は意外と大きな影響をシリーズに与えたのではないか。いかにも世界最高の科学技術を用いて作られた、ハイテクスーツという印象。しかもデザインもスマートでシャープ。運動神経ゼロの人間でも、このスーツを気さえすれば五倍十倍のパワーが出、無敵のスーパーヒーローとなれると言われても全然おかしな感じがしない。
 『ダイナマン』以降も変身前アクション重視の姿勢は変わらなかったが、見ていて「あんなすごいスーツを持っているんだから、敵に遭遇したらさっさと変身したらいいのに」という印象を持たないわけにはいかなかくなった。90年代なかばあたりから、役者のアクションはほとんどなくなる。そして、特に強い体力も精神力も持っていない人間でも、強化スーツさえ身にまとえば安心して戦士になれるんだという路線が主流になっていく。光沢のある材質はその下ならしをしたと言えるのではないか。
 ちなみに『ゴレンジャー』の劇中では、強化スーツの性能や原理について、詳しい説明は一切なされていない。石森章太郎によるマンガ版では少し詳しく描かれていて、パワーアップは1.5〜2倍だそうだ(図参照)。あのもっさりした、ぶかぶかのスーツの性能はそんなもんだろう。
 そしてそんな程度の性能しか持っていない強化スーツを着て、凶暴な敵が待ち構えている戦場へと女の子がおもむくのを、視聴者はハラハラドキドキしながら見つめていたわけである。
 こういう感覚というのは、最近の若い戦隊ファンとかには分かってもらえるのだろうか?
ゴレンジャースーツ
性能の低さが生んだリアリティ ペギー松山

戦隊ヒロインはお茶くみを拒否する

 『天装戦隊ゴセイジャー』はまだ見ていないなのだが、第4話の大掃除のシーンがちょっとした話題になっているみたいなので、そこだけ見てみた。
 部屋がおおかた片付いたので、モネは自分と自分の兄貴であるアグリの二人のためだけにコーヒーをいれる。
 ハイド「あれ、俺のは?」
 モネ「え!? 自分でやればあ?」

 コミカルな芝居を挿入しようとしたが演出に失敗して、単に険悪なだけの展開になってしまったのではと、推測している人もいる。しかし、ひょっとして作り手は意図的にモネをそういうキャラクターにしたかったのではないか。
 コーヒーを五人分いれるのも二人分いれるのも、大した手間の違いはないだろう。しかし、女にしてみれば、好きでもない男のためにコーヒーを入れるなんて一滴たりともイヤだ。イヤなものはイヤと言う。普段職場で心ならずもお茶くみをさせられている全国のOLはこのシーンを見て溜飲が下がるはず……。
 戦隊ヒロインの歴史を見てみると、仲間に対する思いやり、気配りという点では昔のほうが圧倒的に上である。仲間がケガをすれば心配し、率先して包帯を巻く。それが女の役目だというふうに。別に好きでやっていたかどうかは分からない。心の中では女性差別だと思っていたかもしれない。しかし相手は地球の平和を守るために、命をかけて共に戦う仲間である。チームの雰囲気を常に良好な状態に保っておくことは戦士にとって最も優先されるべきことであって、仲間に包帯を巻いてもらいたがっている奴がいれば巻く。そういうものだ。
 時代が下がるにつれ、女性差別と指摘する声に従ったのか、そういうシーンはなくなっていった。かといって男が包帯を巻くようになったわけでもない。包帯を巻くシーンそのものがなくなっていったのだ。そして戦隊メンバーの人間関係はどんどん希薄になっていき、ともに命をかけて戦う仲間だという意識も年を追って減少する。
 モネのお茶くみ拒否も、そういう流れの上にあるのであろう。

Go to top of page