島本和彦と大川めぐみと作家の自意識について

島本和彦『燃えよペン』
 島本和彦『燃えよペン』はマンガ家・炎尾燃を主人公にしたギャグマンガであるが、その「偶像憧憬敗北編」、これは炎尾が編集部を利用してアイドルに会おうと画策する話である。この冒頭で、これはフィクションであって、炎尾と島本は全くの別人と大書してある。これは「自分は炎尾ほどの馬鹿ではない」という意味だと誰もが思ったことであろう。違うのである。「自分の馬鹿は炎尾程度では済まない」という意味だったのである。
 『少年サンデー』の増刊号で、島本和彦と大川めぐみのデート、などというグラビア企画が載ったことがある。これがどうも変なのである。ザラ紙で二色刷りでは、女優の顔も変に赤っぽくなって、美しく印刷されないことは最初から分かりきっている。対談の中身もスカスカだし。『サンデー』として、大川めぐみをプッシュしようという気が全然感じられない。で、しばらく考えて分かったのは、これは大川めぐみのための企画ではなく、島本和彦のための企画だったということである。
 島本和彦は大川めぐみに会いたいと思った。そこで対談企画を編集部に提案した。ところが編集部はそんなものは面白くないと判断し、島本和彦に思い切り恥ずかしい格好をさせ、にやけた面を誌面に載せて全国に晒そうと企んだ。なんという奸智に長けた連中であろう、少年雑誌の編集者というのは。そしてそれに乗せられた……いや、乗ったにちがいない。あこがれの大川めぐみさんに会えるのであれば、どんな恥辱にも耐えてみせよう、と。そして自作の『風の戦士ダン』のコスプレ(当時はそんな言葉はなかった)をして公園に向かう島本先生……。
 なんという天晴さ。
 それにしても、島本先生はこんなに面白い人なのに、『アオイホノオ』の焔燃はなんであんなにつまらないキャラなのだろうか。すでに島本和彦はマンガ家として成功した。そんな人が、学生時代にこんな失敗をした、こんな恥ずかしい経験をしたといくら描いたところで、今さら自分自身傷つくことはない。自分を安全な立場に置いて作った作品に魂が宿るわけがないだろう。ここは一つ、「大川めぐみさんに会わせてくださいっ!」と編集部に言った時の心に立ち返るべきである。そうでなきゃ、島本先生のにやけ面、このブログにアップロードしちゃうよ。

都道府県対抗 日本各地を舞台にした戦隊エピソード(仮)

ようこそ仙台へ
『激走戦隊カーレンジャー』第26話。別に観光地でも何でもない普通の住宅街に、こんな看板が出てたりするのだろうか、仙台って。

 ニコニコ動画を見ていたら、都道府県対抗 日本各地を舞台にしたアニメという動画が面白く、こういうの戦隊でも作りたいなあと思って色々調べ始めたのが数年前だが、どうも無理に思えてきた。
 たとえば三重県。戦隊シリーズで、なにか三重県にわずかでも関係のある事物が登場したことはないかと目を皿のようにして探した結果、ダイナブラックが伊賀忍者の子孫であることを発見した。まあこんな調子で探して、それでも見つからないのが12県もある。これではちょっと多すぎる。

 岩手 秋田 山形 富山 奈良 和歌山 島根 山口 徳島 佐賀 大分 宮崎

 昔は戦隊でも地方ロケを一年に一回はやっていた。地方の雄大な自然風景を画面に取り入れたいとか、合宿効果でキャスト・スタッフの一体感が増すとか、狙いはいろいろあったらしい。それを毎年ずっと続けておれば、今頃は日本全国で「うちの県には○○ジャーが来たことがあるぞ」などという会話が交わされ、スーパー戦隊は子供たちにとって一層親しいものになっていたかと思うと残念でならない。今はもう制作体制に余裕がないということが見え見えだから、目先の利益に直結しないものはどんどん切り捨てざるをえないんだろうけど。関東地方(+静岡県東部)ばっかりじゃあ、そんな動画作っても面白くもなんともない。『メガレンジャー』で高校の修学旅行がりんどう湖って、変すぎだろ(行かんよりはマシだが)。

 スーパー戦隊の戦士は当然、日本全国から集められた精鋭のはず。だからこそ、普段は東京に基地をおいていても、日本全国どこからでも救いを求める声があれば、駆けつけるのが当然であった。今は人材や資源を吸い上げるだけ吸い上げておいて、地方のことは視野の外。なんというか、今の日本の縮図を見るがごとき状況……

戦隊シリーズの戦士の名前の由来・その他

戦隊シリーズの戦士の名前の由来

特捜戦隊デカレンジャー
 荒川稔久氏と秋田県とのつながりについて、何かご存知の方はぜひお知らせを。名古屋ネタなら「またやってる」で済むんだけどなあ、この人の場合……。

侍戦隊シンケンジャー
 小説家の名前からとった説がある。しかし仮に志葉が司馬からとったとすると、司馬遼太郎からは音だけとって漢字を変え、池波正太郎からは音も漢字もそのままということになる。いくらなんでもこれは不自然。というか、小林靖子氏はこういうのはやらないんじゃ。

天装戦隊ゴセイジャー
 アラタのローマ文字表記はArataではなくてAlata、ということを考えると、Alate(英語、翼のあるという意味)由来というのは、確かに説得力はある。しかし発音が「エイレイト」では……。

獣電戦隊キョウリュウジャー
 アミィ結月って一体何人なんだろう。Amyなら「エイミィ」ではないのか。
 そういえば、科学戦隊ダイナマンの夢野総司令役をやった島田順司氏は当たり役が新選組の沖田総司。そしてダイナレッド・弾北斗役の沖田さとし氏の芸名は沖田総司のもじり。そしてキョウリュウの立風館ソウジの父親役を演ったのがダイナブラックの春田純一氏とくれば、このソウジが沖田総司からとったのは明白……と書こうと思ったけど、あまりにもマニアックすぎるのでやめた。しかしこういうマニアックさこそが、こういう名前考察の醍醐味なのである。一文の役にも立たないが。

大川めぐみさんに会ってきた

格闘技大会
小学生の部で審判員

 試合が終わってから、子供たちやその親と楽しそうにしゃべっている大川さんを見ていると、桃園ミキの三十年後というのもこうなのだろうなあ、という感慨にひたってきた。悪の組織の残党が息を吹き返して再び戦士は戦場へ、というのはもうお腹いっぱいである。ヒーロー物の後日譚というのは、どうしてああもワンパターンなのであろうか。まあ仕方ないっちゃあ仕方ないんだけど。
 というか、昨今のウクライナとか中東とか世界各地の情勢を見ていると、「冷戦の再開」がささやかれている現在、デスダークの残党なんかもう出番はないのである。1982年というのは冷戦の真っ最中。人類を何度も全滅させるに足る量の核兵器を東西両陣営が抱えて対峙するなどという、今思い返しただけでも頭が変になりそうな時代だった。しかしその分、その二つの超大国の指導者が合意さえすれば、世界に平和が来るという幻想が成立する余地もあった。そしてその両大国の対立の背後にある暗黒科学、などという存在も、それほど突拍子もない発想というわけでもなかったのである。
 今は、世界各地で起きている紛争も、争っている勢力が二つだけなどということは絶対にないし、その上に利害とか民族感情とかメンツとかが余りにも複雑に絡み合いすぎて、どこから手を付けたらいいのか、まるで分からないのが常態である。これではデスダークも手の貸しようがなくて困っているに違いない。

 最近の東映は、昔の作品のリメイクにやたら熱心だが、1980年代のヒーロー物は絶対にうまくいくわけがないのである。作品に対する愛がないとか予算がないとか時間がないとか才能のある人材がないとか、そういう問題ではない。

公式に失敗作認定された『ギャバン THE MOVIE』

 白倉伸一郎氏「決して失敗だったとは言いたくないですが……」
 プロデューサーという立場にあるものが、こんなことを公の場で言っていいのだろうか。これって、失敗だったと言ってるのと同じだぞ。
 『宇宙刑事ギャバン THE MOVIE』(2012年)は私は見ていない。見る予定もない。それは、誰の目から見ても失敗作としか言いようのない、ひどい出来ばえの作品だったのだろうか? だからといって、こんな発言をしていいとは思えない。
 たとえば鈴木武幸氏は、1981〜1995年の15年間戦隊のプロデューサーをつとめた人だが、自分の関わった作品について、こんな発言はしたことがない(「成功だった」とは言う)。自分一人で作った作品ではない。脚本やら監督やら音楽やらデザインやら、莫大な数の人間が力を合わせて作った作品である以上、いくら自分が最高責任者だからといって、軽々しくしていい発言ではないだろう。ファンに対しても失礼である。『ギャバン THE MOVIE』がどれほどつまらない作品であったとして、それを心ゆくまで楽しんだ観客はいるはずだ。プロデューサーがこんな発言をしたことで、スタッフにとってもファンにとっても、一体どんな得があるのだろうか?
 だいたい作品が成功か失敗かなどということが、そんなに簡単に決められるものだろうか。たとえば東映の『柔道一直線』は高視聴率にもかかわらず大赤字だった。ところがその作品の制作過程で蓄えられたノウハウは、『仮面ライダー』に生かされ莫大な利益を生み出した。こうなると赤字だから失敗作と簡単に決めつけられるものでもない。
 ひょっとしたら今の東映というのは、プロデューサーが「来年の戦隊はこういうのにする」と決め、スタッフはその手足となってその構想を忠実に実行するだけ、というふうな制作体制になっているのだろうか。だとすれば、プロデューサーが作品の成功・失敗に対して一人で全責任を背負っている気になるのも不自然ではない。しかし、だとするとそれは創作の現場としては、かなりまずいことではあるまいか。そこでは「たくまざる傑作」というのは絶対に生まれないのだから。
 というか、そもそも今の東映特撮は本当に「創作物」なのだろうか。単にベルトコンベアに乗せられた、工業製品のような気がしてくる。昨今の、とにかく話題を作って客が入りさえすればいいという映画作りの手法を見ていたら。そして、そんなやり方を続けていけば、先細りは目に見えている。

『ドラえもん』は子供の読み物

どっちも自分が正しいと
てんとう虫コミックス1巻「ご先祖さま がんばれ」

 藤子・F・不二雄先生も、まさか本気でこんなことを考えていたわけではあるまい。『ドラえもん』は小学生の読み物だから、それに合わせて程度を落として書いていたのであろう。普通の小学生にとっては、戦争なんて「正しいのはどっちか」という形でしか考えることはない。だからこそ、小学生の時にこのドラえもんのセリフに接した人は、新鮮な衝撃を受けたのだし、『ドラえもん』が優れた児童文学であるということの証左でもある。だが、いい年こいた大人が『ドラえもん』の名ゼリフを拳々服膺していたりするのは、それはやっぱりマズいだろう。
 もちろん、自分が正しいと双方が思っている戦争というのもある。だが、それがすべてではない。単なる領土拡張欲だったり、メンツや保身が原因で、「自分が正しい」なんてカケラも思っていなくて戦争を始める政治家なんて、有史以来数限りなくいた。そして大義名分なんてものは、後から考えるものである。
 F先生が終戦を迎えたのは、国民学校六年生の時である。そんな年齢で批判精神など持ちようもないし、おそらくは大東亜戦争が正義のための戦いであることを、固く信じていたに違いない。そしてその後、国民に死ねと呼号していた戦争指導者たちが、戦後になってぬけぬけと「自分は本心では戦争に反対であった」などと言い出し、大して心理的葛藤もなく面従腹背というのでもなく、米軍の対日占領政策に進んで協力していったことを、F先生はどのような思いで見つめていたのであろうか。果たして大東亜戦争は日本にとって「自分が正しいと思ってやった戦争」だったのか。一応断っておくと、連合国が正義で枢軸国が悪の戦争だったなどと言いたいわけではない。そんなのは論外。
 じゃあF先生は本当はどのような戦争観を持っていたのか。知りたきゃ『SF短編集』読めばいい。ちゃんと読者の年齢に応じて作品を描いている。

 昨今のウクライナやイラク・シリア情勢について、ツイッターを見ていたら、経済学も地政学も何も知らず、ただ「正しいのはどっちか」という観点でしか戦争について考えられないツイートばかりなことに心底呆れて驚いた。こういう世の中であれば、『ドラえもん』を読んでる人はそれだけでもマシなのかもしれない。
 F先生はあの世でどう思っているだろうか?

「モロボシ・ダンの店」を哀れむ

 昔ヒーロー・ヒロインを演っていた人に会いに行くということについて、再び。

 今では飲食店などを経営しており、ファンの人も来てください、などと宣伝をしている人たちもいる。いかにも問題なく楽しめそうな感じがする。ところが実際はそうでもないらしい。『ウルトラセブン』でモロボシ・ダンを演じた森次晃嗣氏のやっている店の噂話を聞いていたら、無性に悲しくなってきた。
 どっちが悪いという話ではない。森次氏の性格が接客業に向いていないのか、特撮オタクのマナーが悪すぎるのが原因なのか、そんなことは副次的な問題に過ぎない。店に行って不満を持ち帰ったファンの言い分はこうである。自分は千円を使った、しかるにそれに相当するだけの満足感を得られなかった、と。
 子供の頃に憧れたヒーロー・ヒロインに会うということ。そこで得られる喜びというものは、本来であれば値段など付けられないはずのものである。それに森次氏は値札をつけた。だから、得られた満足感が値段を上回っていれば満足するし、下回っていれば不満を持つ。当然のことである。そして、そういう仕組み自体に対する疑問ではないらしい。
 金銭の介在は、確かに物事の取引をスマートにさせる。普通、初対面の人に会いに行くには勇気がいる。相手に迷惑と思われたらどうしよう、嫌われたらどうしようという不安。しかし客として行くのであれば別だ。こっちは金を払ってるんだ、だからその分満足させろと気安く行ける。安全なのである。その代わり、心と心のふれあいなど、最初から期待するべくもない。
 森次氏の店にしても、そのハヤシライスが絶品で、別にウルトラセブンなんか売りにしなくても繁盛するような店だというのであれば話は別である。だが実際はそうではない。金銭が一旦からんでしまった以上、そこには純粋な思い入れなど入り込む余地はない。森次氏が本心から『ウルトラセブン』という作品を愛しているのか、それとも商売上そう振舞っているだけなのかなどということは問題にもならない。
 やっていることはアイドルの有料握手会と一緒である。

 別にそれが悪いというのではない。ただ、そういう考えに慣れてしまった人からすれば、すでに芸能人を引退し、また元芸能人であるということを商売に利用していない人に会いに行くなどということは、想像もできない蛮行なのだろうなあという気はする。

バトルコサックとソ連の無関係さについて

バトルコサック
 『バトルフィーバーJ』の五人はそれぞれ国を代表する戦士であり、バトルコサックはソ連代表である――などという誤解が蔓延しているようなので、ここで訂正役を買って出る。
 コサックの胸のエンブレムを、ソ連の国旗とよく見比べてもらいたい。左右が逆である。これはソ連ではなく、第四インターナショナルである。「鎌と槌」はもともと全世界の共産主義運動のマークであり、ソ連もまたそれを国旗に拝借した。だが、それをスターリニズムと批判し、自分たちこそ真の共産主義者と自任する勢力も当然存在した。彼らは別バージョンの「鎌と槌」をシンボルとしていただき、そのために左右が反転しているのである。
 といっても第四インターとは、マニアックに過ぎる。非ソ連型社会主義のシンボルとして使われている、というくらいに考えておくのが妥当ではないか。ソビエト連邦という国と切り離して、労働者と農民の連帯、社会主義の理想のために戦う人達のシンボルだと。とするとバトルフランスも、ひょっとしてフランス共和国という国とは関係なく、胸のエンブレムも単に「自由・平等・友愛の旗」という意味だったのかもしれない。なにしろ得意技がフラメンコなんだし。
 バトルフィーバーは世界各地から集った戦士たちである。世界各国から集まった戦士ではない。似たようなものと思うかもしれないが、違うのである。
 国家だの国民だのといった枠組みを超え、平和を愛する若者が世界中から集まり力を合わせて戦う、というロマンが1979年当時にはあった。時あたかも冷戦の真っ最中、東西両陣営が大量の核兵器を抱えて睨みあっていた時期である(ちなみに日本は西側の一員)。冷戦が終わり、現在の我々は、以前ほどには第三次世界大戦の危機に怯えずにすむようになった。しかし国という枠組みでしか世界の物事を考えられなくなっているのは、冷戦時代以上という気がする。
 なんか皮肉である。

森永奈緒美の復活に泣く

宇宙刑事アニー
 「え、こんなかわいい人だったの!?」と、特撮ヒロインの写真集に載ってる森永奈緒美さんのスチル写真を見てびっくりしたことは、今でも覚えている。
 というのは、『宇宙刑事シャイダー』の本編でのアニーが、大してかわいくなかったからだ。いや、そう思って改めて本編を見返すと、確かに時々ものすごく魅力的な表情を見せていた。しかし彼女のそういう素質を伸ばそうとすることに、監督陣は全然熱心ではなかった。彼らは彼女の顔を撮ることよりも、彼女のパンツを撮ることに何倍もの熱意を示していた。……今さら言うまでもないことではあるが。
 かてて加えて、脚本家の上原正三氏。アニーを魅力的なキャラクターとして描こうという意欲を見せていたのは序盤の数話だけ。故郷の星を失った悲しみも、シャイダーとの関係も、早々に全然掘り下げられなくなった。その上、全話執筆なんて余計なことをやる。たとえ一本でも他の脚本家、たとえば鷺山京子氏とかが書いていれば、どんなアニーが見られたのだろうかと、今でも思うことがある。
 『シャイダー』という作品は、森永奈緒美という女優の可能性をつぶし、「ああ、パンチラの人ね」という形でしかファンの記憶に残らないようにした――という言い方が妥当かどうかについては異論もあろう。もともとつぶすほどの才能もなかったのだ、それを「パンチラの人」という形でファンの記憶に残るようにしてやったんだから有り難く思え、という反論が返ってくるかもしれない。どっちが正しいかなんて、今さら議論しても仕方がないという気もする。
 彼女自身、丈の短いスカートでのアクションを面白く思ってなかったということは、円谷浩氏(シャイダー役)も証言しているし、いくら東映が図々しい会社であっても、彼女にまた何かに出てくれなどと申し出ることもあるまい。森永さんにはこんな番組に出たことは忘れて、今は一般人として幸せな生活を送っていることを祈る……。

 などと思っていたら、このニュースである。
 なんでこんなもんに出んの!?
 記者会見で、「パンチラはないんですか?」などと質問した馬鹿がいたらしい。森永さんも、いきなり洗礼を浴びせられるとは思わなかっただろうが、ま、こういう世界だということは百も承知で戻ってきたんですよね。だったらもう何も言いませんわ。

頭が悪いのが右翼、頭がおかしいのが左翼

 右翼と左翼の区別のつけ方、というのでネットで検索していたら、こういうのが出てきて、なるほど言い得て妙だと思った。ただこれでは余りにも簡潔過ぎて、理解していない人も多いようなので、ここで解説役を買って出る。
 科学技術は進歩する。産業や経済の発展とともに社会の構造も時とともに変化していく。ところが人間の意識というものは、それほどの速さでは変化しない。伝統とか文化といったものに束縛される。そこで齟齬ができる。これを問題視するのは右翼も左翼も同じである。
 この問題は、一挙に解決する手段はない。一つ一つの問題に対して根気よく取り組んでいくしかないのである。一挙的な解決法に飛びつこうとする人が、考えを極端に走らせる。一つは、歴史や伝統文化なんか完全に無視して、社会の変化に応じて人間の意識もどんどん変えていくべきだとするもの。もう一つは、産業や経済の発展なんか無視して、人間の意識は古いままであるべきとするもの。前者が左翼に後者が右翼になる。
 社会改革のプランというのは、どんなに緻密な理論に基いて組み立てたつもりであっても、地に足のつかない空理空論へと飛躍することがある。左翼の場合、そうなった際にブレーキとなるものがない。「そんな改革、常識的に考えてうまくいくわけないだろ」という批判の声に対しては、「そういう常識こそ変えなければならないのだ」という返答しか返ってこないからである。これが「頭がおかしいのが左翼」である。一方、右翼の提示する社会改革のプランには、新しい発想や飛躍がまったく盛り込まれない。ただ昔はよかったと言うだけで、我々の生活実感から一歩も抜けだそうとしない。つまり「頭が悪いのが右翼」である。
 ネットでは、自分と異なる考えを持った人間を見ればすぐにウヨだのサヨだの決めつけて叩きまくっている人がいっぱいいる。叩くのは結構だが、その前に深呼吸して、その人が過去全肯定論者か未来全肯定論者か程度のことは見極めてからにすべきではなかろうか。そうすれば少しは生産的な議論もできるはずだ。

荻原佐代子って誰よ?

萩原荻原
 こんなもんどう考えても誤記だろ、とは思うのである。
 『超獣戦隊ライブマン』のキャラクターデザインの一人は、資料によって荻原直樹だったり萩原直樹だったりする。確かに「萩」と「荻」ほど間違えやすい漢字というのもそうそうない。漢字の三要素は形音義だが、この二つは形も音も意味も似ている。一体どっちが本当の名前なのか、これはやはり実際の映像を見て確認する必要がある、と思って全49話のエンディングテロップを実際に確認したら、基本的には荻原だが、やっぱりあるんだなあ、萩原の回が。
 だが、時々本当に萩原に改名していた可能性だって100パーセントないとは言い切れない。契約の都合上、複数の名義を使い分けるということはありうる。「荻原直樹[萩原――]」などという表記は、俺はこんな細かいところまでチェックしてるんだぜ、と誇示するようで何かいやみったらしい感じがする。しかし他にどうしようもないのである。(ちなみに『光戦隊マスクマン』では全話荻原)。
 こういうのは、東映が何とかしてくれたっていいのにと思う。公式サイトで「萩原直樹は間違いでした」という公式声明を出せば解決する話である。だがそういうことはやらない。スーパー戦隊は一年たったら使い捨て。過去の作品を大切にしようという気はない、そういう姿勢は昔から一貫している。
 ただ悪いことばかりではない。そういう姿勢が逆に東映という会社に活気を与えていた、という一面もあることはあるのだ。
 『スーパーヒーロー大戦Z』でギャバンの扱いがあまりにもヒドい、というのが最近話題になっていた。憤慨したりしているのは、多分若いファンだけであろう。古参のファンは、あんな映画に最初から何の期待も持たないはずだ。それが東映という会社なんである、よくも悪くも。

 ちなみに写真の下半分は、『スーパーヒロイン図鑑 戦隊シリーズ篇』というLDに出た際の、萩原佐代子氏である。その後DVDになったはずだが、訂正はあったのだろうか?

戦隊シリーズ主要スタッフリスト

「絆」という流行語

1999 救 3 爆破された兄弟愛(きずな)
2000 未 20 新たなる絆
2002 風 18 父と兄弟の絆
2005 魔 27 俺たちの絆 〜マジーネ・マジーネ〜
2005 魔 34 勇気の絆 〜ゴール・ゴル・ゴルド〜
2008 炎 35 炎神ノキズナ
2009 侍 47 絆
2010 天 41 爆発! 仲間の絆
2012 命 50 永遠のキズナ

 戦隊マップ、コメントがいただければ対応したいが、そうでなければ一旦終える。『ハリケンジャー』以降についてはそのうちやるつもり。
 最近の戦隊に関しては、「絆」という言葉が気になりだしたので、スーパー戦隊シリーズで「絆」「キズナ」が使われているサブタイトルを集めてみた。驚いたのは、1998年以前には使用例が一度もないということである。
 2011年(つまり震災の年)、「今年の漢字」に「絆」が選ばれた時、ファシズムを危惧する声を上げる人もいたようだ。「絆」は牛馬を縛る綱が語源、という議論はおいておくにしても、もともとこれは良い意味と悪い意味の二面性を持った漢字だったはずだ。それがなぜか、「人と人との支え合い」という一面だけに光を当てて持ち上げ、「自由を縛るもの」という面をあえて隠蔽する危険な風潮が出てきていると。確かに「絆」は昔からある言葉だが、以前はそれほど持てはやされてはなかった気がする(ちなみにファシズムの語源も「束ねる」である)。
 とすると戦隊シリーズもまたその風潮に便乗しているのだろうか?
 そんな単純な話でもないような気がする。「絆」という言葉を特に愛用するのが、小林靖子氏がメイン脚本家をつとめた作品である(『ゴーバスターズ』のエンディング曲も「キズナ」)。で、それらの作品における登場人物が、なぜか妙に個人主義的なのである。『タイムレンジャー』の私度の高さは典型的である。
 戦隊シリーズは、「絆」という言葉の二面性をきちんと追求していく方針を持つのだろうか、それとも特に考えもなく、安直に時流に棹さして流されていくのか、注視していきたい。などと偉そうなことを書いている私自身、まだ『シンケンジャー』も『ゴーバスターズ』も見てなかったりする。すみません。

戦隊史学基礎(実践編)

昔のヒーローに会いに行くということ

 大川めぐみさんを独り占めにしようと抜けがけを企んだ、などと思われたら心外なので、ちょっと釈明を。
 逆なのである。あの時は一人じゃ心細くて心細くて、一緒に行ってくれる人がいればどれほどいいだろうと思ったことか。いや本当、緊張しすぎて体調を崩すなんて久しぶりに経験したほど。だったらなんで誘ってくれなかったんだと言われるかもしれないが、だからメールボックスとアドレス帳を間違って全部消してしまったんだって。そのことに関しては謝るしかない。すみません。それに私だって別に極秘のルートを通じて大川さんの居所を突き止めたわけでは全然なく、ネットで拾った情報なんだし、大川さんにもう一度会いたいと思った人であれば誰だって行けばよいのである。そして現地で落ち合えばよかろうと。

 自分が子供の頃に憧れの対象であったヒーロー・ヒロインで、今は市井の一般人として生活していて、その人に会ってきたという体験をブログに綴っている人も増えてきた。だが、その興奮や感激にはやはり二種類のものがあるように思われる。
 一つはトークイベント、あるいは飲食店を経営していたりして、ファンに「来てください」と言っているケース。もう一つは、ファンのほうが勝手に居所を調べあげ、会いに行くケース。嫌な思いをする(させる)可能性があるのは圧倒的に後者である。礼儀正しさをわきまえていけば防げるというものでもない。しかし実際に会えた時の興奮や感激の大きさは、後者のほうがはるかに大きいだろう。それは「お客さん」を相手にした態度ではない、本当のその人の素である。
 やっとのことで居所を突き止めたのだが、行く勇気がない、などと思っている人。行きなさい。それこそヤマアラシのジレンマである。「そのうち行こう」なんて思っている人は、絶対に会えない。長い間逡巡した挙句にようやっと勇気を振り絞って行ってみたら、相手は三日前に引っ越し済み(しかも転居先不明)、そして死ぬほど後悔する。よくある話ですわ。

戦隊史学基礎(応用編)

大川めぐみさんに会いに行く

大会パンフ
↑ これは去年の。

 今年ももうすぐ全日本統合徒手格闘技選手権大会の時期です(2014年9月21日)。会いたいと思っている人は、今から準備しておきましょう。
 去年行った時に一つだけ残念だったことは、今なお大川めぐみの熱烈なファンが大勢いるということを、こっちは一生懸命説明してきたのだが、ぜんぜん信じてもらえなかったことである。まあ、確かにそういうものかもしれない。だから「来年はもっと大勢で来ますよ」と言ってはみたものの、今年は果たして何人来るのだろうか。

 長い間更新を滞らせていたのは、別に怠けていたわけではない。人様の作った作品に対して批判的なことを書くのであれば、まず自分がどのような批評軸を持っているのかを最初に明らかにする義務があると私は思っている。どのような作品を高く評価し、どのような作品を低く評価するのか。それを抜きにして、いかに精密な理論を展開しようが、そんな批評は単なる悪口と変わるところはない。だから小出しにするのではなく、完成してからUPしようと思ってたら、完成するまであと少しあと少しと思っているうちに、何年も経ってしまった、まあよくある話である。
 その間、読む前のメールボックスの中身を全部消してしまったなどということも一度あって(2012年11月22日、アドレス帳も全部)、不義理なことになってます。すみません。

戦隊史学基礎(理論編)

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