お疲れ様でした、高寺成紀さん

語ろう!555・剣・響鬼

―― 高寺さんがあのときに示してくれた「響鬼イズム」みたいなものの発露が、この先、いろんな形で出てくるといいなぁと思ってます。
高寺 敗軍の将として、あえて開き直ったものの言い方をさせてもらうとすると、これからの人たちには、もっと「馬鹿なこと」をしてほしいなぁと。
 これからの人たち?
 自分はやらんの?
 あ、そうか。この人はもう終わった人なのか。
 この本『語ろう! 555 剣 響鬼』の「おわりに」によれば、「計3回の取材で合計20時間以上」「その後もメールやスカイプで何度も対話を続け」「約半年かかりました」とのこと。それほどの莫大な手間暇をかけて、高寺氏が『響鬼』でやろうとしたことを探ろうとしたのは、その失敗から学び、経験を糧にして次に生かすためである。しかしそれは高寺氏が次回作のために生かすためではなくて、若い人たちに生かしてもらおうとするためであったらしい。
 『ガメラ』の新作を任されているという噂もあったが、頓挫したのかそれとも最初からガセだったのか。
 しかしこれだけの手間暇をかけながら、結局は単なる自己正当化にしかなっていないとは。
 スーパー戦隊シリーズはなぜかくも長く続いているのか。マンネリと革新を車の両輪に走り続けてきたからである。戦隊シリーズは時代とともに少しずつ少しずつ変化を遂げてきたのであり、ある作品を境に急激に作風が変化するなどということはない。「新しいことへのチャレンジ」なんて毎年やっている。ただ目立たないだけだ。そして目立たずにそういうことをやり続けることが、もっとも大切でありまた困難なことでもある。「完全新生」などと派手な花火を打ち上げるということ自体、偉大なチャレンジでもなんでもないし、しかもそれが力尽きて倒れたのでは評価の対象にもならない。
 まあいずれにせよお疲れ様でした。「平成仮面ライダーを立ち上げた男」という肩書があれば一生食いっぱぐれることもありますまい。このブログでも二度と取り上げることはなさそうだし。

『ドラえもん のび太の勧善懲悪』(前編)

のび太の魔界大冒険
藤子・F・不二雄『ドラえもん のび太の魔界大冒険』より。人間界のあらゆる常識が通用しない魔界、そのボスがなんでこんな陳腐きわまるセリフを口にしているのだろう……。

 「『ドラえもん』をやめさせてくれないんだ」
 晩年の藤子・F・不二雄先生は嫌々『ドラえもん』を描いていた、というのはファンの間では有名な話である――ということを以前「なぜ『チンプイ』は完結しなかったのか(その4)」で書いた。だから私は『大長編ドラえもん』は大嫌いである。読んでないけど。しかしいつまでも食わず嫌いも良くないと思ったので、先日意を決して『藤子・F・不二雄大全集』の二巻を読んでみた。
 はぁー……。
 おいたわしや、藤子F先生……。
 もともと『ドラえもん』は日常生活を舞台にしたギャグマンガである。五人のキャラクターもそれに合わせて作ったものである。それを冒険活劇の世界に持って行ったものだから、当然のことながらあらゆる場面で無理が出ている。その上、なんか妙にモタモタしたコマ運び、迫力の欠けたアクション、説明ゼリフ。そして生気のないゲストキャラ。
 短距離走の金メダリストをマラソンに出せば、こんな具合になるのだろうか。
 私は最近のスーパー戦隊については批判がましいことばかり書いてきた。しかし大長編ドラえもんに比べれば、はるかにマシだ。今まで厳しい態度をとりすぎていたことについては反省している。それはともかく。
 わが家の本棚には『ドラえもん』のてんとう虫コミックスが19巻まである。子供の頃に、何度も何度も繰り返し読んだもので、ボロボロになっている。子供の頃に大好きだったマンガがかくも無残な姿をさらしているのを見るのは辛かった。
 だが、藤子・F・不二雄というマンガ家が、日本の歴史上有数の偉大なクリエイターである、という事実をいったん頭から追い出し、まっさらな心で改めて長編ドラを読んでみれば、実はそんなに悪くはない、そこそこ楽しめる作品になっていることに気づかされる。
 以前に「勧善懲悪で何が悪いのか?」他で、勧善懲悪は程度の低いものであると無根拠に決めつける風潮について論じた。長編ドラのつまらなさは、この問題を考える糸口を提供しているような気がする。(続く)

『カーレンジャー』の最初のつまずき

 ジェットマンは「仕方なく選ばれた戦士」か?に引き続き、戦隊の分類について。
 『鳥人戦隊ジェットマン』は確かに当時の戦隊シリーズにおける常識の壁をすり抜けることに成功したが、壁を打ち壊したわけではなかった。戦隊を、どういう方針に基づいて戦うかに着目して「長期ビジョン系」と「臨機応変系」に分類した時、前者が正当で後者が異端である、という常識がある。『ジェットマン』でもプロが戦えないから仕方なくシロートが戦う、という設定にしており、シロートの方がプロよりも優れているという積極的な理由があったからシロートが戦ったわけではない。
 そしてそれが『激走戦隊カーレンジャー』の最初のつまづきの石にもなった。
 カーレンジャーの五人は伝説に選ばれた戦士である。ではその伝説とやらが、いつの時代から、どんな人々によって、そして彼らのどのような思いを込めて伝えられ続けてきたものなのか、作中で説明が一切ない。なんでこんな設定にしたのだろう。なんだかよく分からない理由でいつのまにか巻き込まれて戦士にされてしまったという設定にしたほうが良かったんじゃないのか。そのほうが『カーレンジャー』という作品の雰囲気にも合致していたように思う。
 結局は、『カーレンジャー』のような、革新的な意欲に満ちた作品にして、戦隊シリーズの旧来の常識から逃れることができなかったということなのだろうか。
 私は不思議コメディーシリーズは少ししか見たことがないが、あまりのシュールな世界に目の回る思いをした記憶がある。『カーレンジャー』では浦沢テイストがかなり薄めであることは否定しがたい。浦沢テイストと戦隊テイストで化学反応を起こすつもりが、お互いの持ち味を殺していたようでもある。成功していれば、今頃は『カーレンジャー』は戦隊シリーズの救世主であり新しいスタンダードになっていたに違いない。原因はやはりプロデューサーだろうか。最初に「こういう作品にする」と細部にわたって全部ガチガチに決めてからでないと何も始められない人だからなあ。まさに「長期ビジョン系」というわけか。『カーレンジャー』といえば「浦沢義雄の作品」という論じ方ばかりがなされているが、「高寺成紀の作品」という論じ方を少しくらいはしてもいいと思う。

なぜイエローフォー交代の真相を知りたがるのか

 『超電子バイオマン』(1984年)のイエローが途中で交代した件については、いまだに真相のすべては明らかになっていない。当時のスタッフやキャストの発言から、断片的な情報をすくい上げて組み合わせ、おぼろげな輪郭を描き出すのみである。先日もある掲示板でそんな話題が出ていた。するとこんな発言があった。
 「なんでそんなこと知りたいの?」
 そんなことが今さら明るみになったところで、『バイオマン』という作品の面白さが増したり減ったりするわけではないし、戦隊史における『バイオマン』という作品の位置づけが変わるわけでもない。――なるほど、確かにその疑問はもっともである。
 ファンが知りたいのは、ただ一点のみである。その交代劇阻止のために一体どの程度の努力が払われたのか。
 イエローの交代は作品にとってマイナスでしかなかった。第一に、地球を守って戦えるのはバイオの血を引いた五人だけだ、という設定で始まった話が、戦死者が出た翌週にもう代わりが出てきた。話の辻褄が合わなくなった上に緊張感もそがれた。第二にヒロイン二人の性格の描き分けの予定が狂って無茶苦茶になった。
 『バイオマン』のキャストやスタッフのインタビューが、雑誌に載ったりすることがある。そういう話は大抵、『バイオマン』をいい作品にすべく当時みんな命がけだった、などという話になる。別にそれを疑う気はない。実際第17話撮影中で郷史郎役の阪本良介氏が大怪我をし、その後完治していないにもかかわらず撮影に復帰した話は感動的である。しかしそういった話を得意気に披露する一方で、矢島由紀氏の降板の時は現場の雰囲気がどのようなものであったのかについては誰も何もしゃべらない。矢島氏が辞めたいと言ったのか、それとも矢島を辞めさせろと主張する奴がいたのかは知らない。矢島氏で続けられるよう、みんな懸命の説得を試みたのだが止むを得ず果たせなかったのか、それとも役者の代わりなんかいくらでもいるんだ、辞め(させ)たいと言ってるんだから辞め(させ)ればいいだろ、どうせジャリ番なんだしと、深く考えもせずに交代になったのか。そのことに対していつまでも関係者一同口を閉ざしている以上、その「『バイオマン』をいい作品にすべく命がけだった」という話に対しても、ファンとしては今後ずっと値引きして受け止め続けざるをえないのである。

ジェットマンは「仕方なく選ばれた戦士」か?

 勧善懲悪で何が悪いのか?・に続いて戦隊の分類について再論。

 私、ずーっと昔から、こんな日を待っていましたの。退屈な毎日から飛び立てる日を。あぁ、感激ですわ。私が地球を救うなんて。私、燃えます!
 『鳥人戦隊ジェットマン』第一話の、香が戦士に誘われるシーンからなんだが、しかしこれよく考えると、すごいセリフだなあ。バイラムの侵略を前にして、地球はシロートによる部隊で立ち向かわなければならなくなった。まさに絶体絶命の危機。それを喜ぶのかこの人は。いや香だけではなくて、ジェットマンってなんか全員楽しそうだ。客観的に見ればこれほど絶望的な状況はないというのに。
 確かに知力体力精神力使命感他いろいろ、スカイフォースの正規の隊員に比べて劣っているというのは事実である。しかしそれを戦士として劣っていることに直結させるのは適当ではない。シロートにはシロートなりの戦い方というものがあって、それは必ずしも正規隊員に比べて劣っているとは言えないはずだ。という観点からはネオジェットマンの存在というのも実はかなり作品の奥深いところを突いていたのではなかったか。
 もっとも『ジェットマン』という作品自体、この点を深く掘り下げていたとは必ずしも言いがたい。井上敏樹氏は戦隊のメインライターを以後一度も務めることはなかったのは残念ではあるが、その衣鉢を継いだのは間違いなく小林靖子氏である。『星獣戦隊ギンガマン』のリョウマは地球の平和を守ることよりも、「兄を超えたい」という自分の個人的な願いの方が大事だと思っていた節がある。そういえばこいつも補欠繰り上げだった。『未来戦隊タイムレンジャー』の竜也もまた家名の束縛から逃れたいという思いから、戦士になったんだっけ。
 小林靖子が好きだという人も嫌いだという人も、多分同じ所に引っかかっているのではあるまいか。地球の平和のことよりも、自分のことのほうが大事だという。でも、目的に向かって直線よりも迂回路を行くほうが確実に辿りつけるという場合もあるはずだ。迂回路は、直線で行けない場合に限って仕方なく選ぶ道、とは限らない。
『カーレンジャー』の最初のつまずきに続く

愛の批判・憎悪の批判

エスパー魔美

 『藤子・F・不二雄大全集』を読んでおったら、『エスパー魔美』第一巻「くたばれ評論家」に誤字を発見。「祅」(しめすへんに夭)ではなくて「祆」(しめすへんに天)。
 それはともかく。
 この「くたばれ評論家」という話、なんかやたらとブログで取り上げられている話のようだ。ブロガーなら誰にとっても、他人事ではない切実なテーマなのだろうな。ブログで人や作品をけなしたり叩いたりしている人は多い。その動機は大きく分けて二つある。一つは好きだから叩くのであり、もう一つは嫌いだから叩くのである。ところが本人は好きだから叩いているにもかかわらず、人からは嫌いだから叩いていると勘違いされ、結果トラブルに発展することも多い。その手の勘違いが魔美に取り返しのつかない誤りを犯させる、という「くたばれ評論家」のストーリーの流れは実に読み応えがある。藤子・F先生にも似たような体験があったのだろうか。それはともかく。
 魔美は極度のファザコンで、軽率で思い込みの激しい性格もまた彼女の魅力である。しかしなあ、普通は分かるでしょ。
 好きで叩いているのか嫌いで叩いているのかくらいは。
 どこで見分けるのか。字数である。好きだから叩いていると、たいてい長い長い文章になる。相手に対して敬意を抱き、きちんとした態度で批判するためには、やはりそれに見合うだけの文章量は必要だ。「寸鉄人を刺す」というのは、長文を書くだけの気力がないのをごまかすために使われる言葉と思って差し支えない。短い文章でズバッと相手の弱点を突くというのも、そうそう出来ることではないのだ。一般的に、憎悪よりも愛情のほうが、人に与えるエネルギーの量は大きい。

ガス抜き、時代劇、特撮ヒーロー(後編)

(承前) 子供は、誰もが自分の目の前に無限の可能性が開かれていると思う(まあ例外もあろうが)。
 そして大人への階段を一歩一歩上るにつれて、世の中というのは理想通りにはならないということを思い知っていく。
 世の中にはびこる不正や悪を、正義のヒーローがばったばったと撫で斬りにするような番組の持つ意味も、大人向けと子供向けとでは意味が大きく違うはずだ。大人は、正義のヒーローなどというものが現実に存在なんかするはずがないということを知り尽くしている。だからそれは世の中の不満に対するガス抜きとして機能する。松田定次監督が東映時代劇について語っていたように。だが、そんな時代劇をルーツとして生まれたはずの東映特撮ヒーロー物は、子どもたちに対して、不正や悪に立ち向かい、それと戦う勇気を与える番組へと変質した。そう考えると胸が熱くなってくる。
 宮内洋氏の言うように、ヒーロー番組は教育番組である。
 ただ特撮ヒーロー番組は、大人が作って子供が見るというところに注意を要する。仮面ライダーにしろスーパー戦隊にしろ、圧倒的な強さを持つヒーローは、なぜそんな圧倒的な強さを持つに至ったのか、リアリティがあるように描かなければならない。そんなことを、子供の心を忘れた大人が作るとうっかり省略してしまう。そして大して努力もせずも大して才能もなさそうな普通のあんちゃんが、強くなりたいなあと願っただけで強くなるようなヒーローを出したりなんかしたりすると、かつての時代劇の世界にあっという間に先祖返りだ。
 ヒーロー番組を見て正義や理想に対する憧れを植え付けられた子どもたちも、やがては大人になれば忘れる。どうせ忘れるんだから、深く考える必要はないんじゃないの、という意見もあるだろう。本当にそうだろうか。いったん身につけその後忘れる、そういうプロセスをちゃんと経由しないと、現実とフィクションの区別もちゃんとつかない大人になったりしないだろうか。そういえば政治の世界でもやたら「守旧派」だの「抵抗勢力」だの「既得権益層」だのと、自分に敵対する勢力にレッテル貼りをし、あたかも悪代官を成敗するヒーローみたいなノリを持ち込む手法が横行している。となると正義のヒーローにリアリティを感じる子供vs.感じない大人、という対立の図式も単純化しすぎただろうか。本格的に論じ出したら大論文になりそうな気がする。

ガス抜き、時代劇、特撮ヒーロー(前編)

あかんやつら

 仮面ライダーやスーパー戦隊など、特撮ヒーロー物において東映が断然面白いのは時代劇の血を引いているからだ、などということがよく言われる。
 数々のヒット作を生み出した平山亨プロデューサーは元々は京都で時代劇を撮っていた人である。当時のエース監督・松田定次氏に助監督として仕えていた時、大衆娯楽作品を作るノウハウを徹底的に叩き込まれ、後年東京のテレビ部に移った際にそれが生かされたというわけである。

「先生、あんなのないですよ」と笑う平山に、松田は諭すようにこう答える。
「平ちゃん、君は大学を出てるからそういうけどね。僕はね、小学校しか出てないんだ。僕と同じような人たちが集団就職で都会に出てきて朝から晩まで働いて日曜にその疲れを癒すために僕の映画を観に劇場に来る。彼らにとって入場料は安くない。その時に神様みたいに千恵蔵が〔ピストルの弾を〕よけると、凄い、と思ってスカッとして、月曜からまた働く意欲がわいてくるんだよ」
  ――春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』より
 ただ、違うところも多い。
 松田氏の教えというのは、要はヒーローの描き方にリアリティなんか要らんということである。片岡千恵蔵の演ずるヒーローが、至近距離からピストルで撃たれてもヒョイヒョイよける。なぜそんなことができるのか。説明なんぞ不要。だいたい正義のために戦うヒーローなどというものが、現実には存在しないことは、観客にも分かりきっている。である以上、そんなところに突っ込みを入れるのは野暮というものだ。
 そしてそうやってワンパターン化していった時代劇は、やがて老人だけが見るものへと特化していき、衰退への道をたどっていく(という論を春日太一氏は後年『なぜ時代劇は滅びるのか』で展開することになる)。
 しかし特撮ヒーロー物は違う。見るのは幼い子どもたちだ。そして人生の先の見えた大人とは違って、子どもにとっては「正義のために戦うヒーロー」の存在は決して絵空事ではない。現実に存在するものなのである。(続く)

小説の地の文における「姓と性」

佐野洋「推理日記」

 佐野洋『推理日記』と言えばミステリー時評集の名作だが、さすがに三十九年間も雑誌に連載していたというだけあって、中には変なのもある。第七巻(1995年)収録の「女性登場人物の呼び方」では、小説では地の文で男は姓・女は名で書き表す習慣があるが(佐野氏自身も含めて)、これは女性蔑視なのではないかとか書いてある。
 なんじゃそりゃ。
 「神の視点」なんて言葉もある通り、小説においては作者は神である。だからといって作者は登場人物全員に対して全くの公平・平等な態度で接しなくてはならないわけではない。堅苦しい雰囲気の中で接する登場人物もいれば、なれなれしい態度で扱う登場人物もいる。それに応じて登場人物を姓で記したり名で記したりする。そしてその結果として男は姓・女は名というふうに書き分ける小説が出来上がったりもする。実際そういう小説は多い。それをいちいち女性蔑視とか言われてもなあ。
 ただこれは佐野洋氏が変というよりは、1980年代が変な時代だったという気がする(1995年はその予熱が続いていた時期)。
 日本におけるフェミニズムの最高揚期。
 女性差別をなくすということと、男と女の扱いを何から何まで同じでなければならないとすることは別だろう。こういう稚拙な議論をしていたことが、その後フェミニズムが自民党にとりこまれ、単なる資本主義の補完勢力に成り下がっていくことにつながっていったような気がしてならない。
 戦隊シリーズで言えば、『電撃戦隊チェンジマン』(1984年)で伊吹長官が「さやか」「麻衣」とか呼んでいるのが、不自然といえば不自然である。しかしその不自然さが、隊内の人間関係の多様性を保障していたという面がなくもない。翌年の『超新星フラッシュマン』以降は呼称は名で統一されることが多くなる。ともに命をかけて戦う仲間の間で差をつけるようなことがあってはおかしいという配慮なのであろうが、それがドラマ性を薄める作用も果たしたような気もする。
 そろそろ姓で呼び合うような戦隊を久しぶりに出しもいいのではないだろうか。

戦隊における人間関係と呼称

ひし美ゆり子に対する疑念(後編)

(承前)

最初、実相寺さんに持っていった話なんです。そうしたら彼が僕にハガキかなにかを寄越した。こうやって滅ぼされる宇宙人は弱いからだ、こういう弱い宇宙人には興味がない、みたいなことを書いてきた。「ああ、この人はマジョリティだ」と思った。彼はウチナーンチュ(内地人=沖縄人)の僕とは違う。そういう視点を持っていない。それですぐ引き取って、野長瀬三摩地監督に持っていったんです
 上原正三氏の「300年間の復讐」に関する発言。『東映ヒーローMAX Vol.31』(2009年12月)。ちなみにインタビュアーは切通理作氏。これに続けて
ただ、彼はまたそういう民衆臭さのないところに味がある。それが実相寺らしくて支持されるところじゃないですか
 民衆の視点があるから良い作品である、民衆の視点がないから悪い作品である――というわけではない。もっとも今どきそんな時代錯誤のプロレタリア芸術論なんか採ってる奴がいたら、そっちのほうがよっぽど変である。ちなみに第43話「第四惑星の悪夢」、シナリオ段階では住民の反抗が描かれていたらしい。それが最終的に省かれ、唐突にウルトラセブンが巨大化してビルを壊すという展開になったのは、単に尺の都合だったのかそれともそれ以上の意味があったのかについては判断を差し控える。
 「遊星より愛をこめて」に民衆の視点なんかない。別にそれは構わない。しかし糾弾の矢面に立たされ、立場が悪くなった途端に「民衆」という権威にすがりついて批判をかわそうとする。よくあるパターンではある。しかしそういうのを卑劣な行為と言うのである。
 樋口尚文氏は本当に『ウルトラセブン』のファンなのであろうか。だとすればファンの風上にも置けない。それとも単にカネのために仕事をしているだけなのだろうか。そっちの可能性のほうが高そうな気がする。
 そしてその疑念は、その樋口氏と組んでこんな本を出したひし美ゆり子氏に対しても当然向けられるべきものである。

ひし美ゆり子に対する疑念(中編)

 (承前)これはインタビューではなく、樋口尚文氏の文章。

 スペル星人に仮託されたものは、自滅の危機に瀕しながらも軍事力を増すために核兵器開発競争に走る愚かしい為政者のイメージであって、その愚昧とエゴが国境を越えようとする純な民衆の祈願を踏みにじるという悲劇が「遊星より愛をこめて」である。
 為政者? 民衆?
 一体何の話だ?
 第12話におけるスペル星人は、単なる悪者である。何の同情の余地もない。そして正義の戦士であるウルトラセブンにやっつけられるのである。
 スペル星人の最大の問題点は、あのケロイドむき出しのデザインである。被爆者一般に対するイメージが投影されたものだと言われて、反論するのはなかなか難しい。被爆者を邪悪なものとして描いているという批判については、そうそう簡単に論破できるようなものではないのだ。そこで樋口氏は第12話を擁護しようとして、民衆だの為政者だのといった本編とは何の関係もない、コジツケとすら言えない超理論を持ち出さざるをえなかった。これはつまり第12話には問題があるということを、逆に主張してしまっているも同然である。
 第12話の封印解除を本当に願っているファンにとっては、樋口氏のやっていることは利敵行為以外の何物でもない。
 スペル星人をあんなデザインにしたのは監督の実相寺昭雄氏である。デザイナーの成田亨氏は反対し、それを押し切った。そして実相寺氏に民衆の視点なんかあるわけがないだろう。
 「300年間の復讐」という、『セブン』用に書かれた脚本がある。執筆者は上原正三氏。ファンの間でも有名なストーリーで、結局はボツになったものの、惜しく思うファンも多い。そしてその映像化阻止に加担したのが実相寺氏である。(続く)

ひし美ゆり子に対する疑念(前編)

万華鏡の女
ひし美ゆり子・樋口尚文『万華鏡の女』(2011年)

 ひし美ゆり子という人は本当に『ウルトラセブン』という作品に思い入れがあるのだろうか?
 それとも、ファンにチヤホヤしてもらえるしイベントにも呼んでもらえるからそんなふうに言っているだけであり、本当は『セブン』に対して関心なんか全然ないのではあるまいか? ――そういう疑念がわきおこらざるをえない本である。
 といっても私もこの本全部読んでないんだが、第12話「遊星より愛をこめて」が『セブン』にとって最もデリケートな問題だということに議論の余地はない。それについて無思慮きわまりない発言をしているというだけで十分であろう。
 第12話には何の問題もない、という主張をするならするでいい。しかしそれなら相応の論理的な根拠を述べるべきだ。安藤健二『封印作品の謎』は私はあまり高く評価してる本ではないが、せめてこの本に書かれた程度の知識くらいは持っていなくては話にならない。しかし樋口氏もひし美氏も、スペル星人の問題点について全く理解していない。そもそも、インタビュアーであるはずの樋口氏が一方的に自分の主張をぶつけ、それに対してひし美氏が調子を合わせてうなずいているだけ。これはもうインタビュー記事としても体をなしていない。
 樋口氏は、「三年間何の抗議もなかった」という事実をもって、第12話自体には何の落ち度もなく「ひばく星人」と記した雑誌記事だけが問題であった、というふうに話をすりかえている。現代史について無知すぎだろう。昔の雑誌なんかを今読むと、左翼とか進歩派とか言われている文化人ですら、マイノリティに対する差別的な言辞を普通に吐いていたりする。当時が普通で今が過敏なのか、当時が過鈍で今が普通なのかは知らんが、とにかく1960年代末ごろに社会思想の大転換が起こったというのは戦後史の常識である。『セブン』の初放映は1967年、初めて抗議が来たのが1970年。放映当初は問題なかったのが、後になって問題アリとなったとしても、別に不自然なことは全然ない。(続く)

勧善懲悪で何が悪いのか?(後編)

戦隊マップ修正版

(承前) 『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975年)の第40話「紅の復讐鬼! 地獄のモモレンジャー」でモモは変身不能に陥るのだが、それはそれで仕方がないから残りの四人でなんとか鉄カゴ仮面を倒すための作戦を考えよう、という方向に発想が一切いかないというのが面白い。だから、ただひたすらモモは変身能力を取り戻そうともがき苦しみ、他全員ともそれを待つだけだった。
 だいたい1970〜80年代は、みんなそんな感じだった。最初に理念というものがある。そしてそれに基いて人員を集め装備を整え戦法を確立させる。そして途中でどんな障害にぶち当たろうと、決して現実に合わせて戦術を修正したりすることはない。つまりこれが、森の中で迷子になったらひたすら北に向かう、に相当する。というか戦隊に限ったことではなく、勧善懲悪のヒーロー物というのはたいていそうだった。そして決して揺るぐことのない固い信念を抱いて困難に立ち向かうヒーローに、視聴者は頼もしさを覚えていたのであった。
 ここでまた転換点として名前が出てくるのが『鳥人戦隊ジェットマン』(1991年)である。スカイフォースの知力体力に優れた精鋭隊員に、バードニックウェーブを浴びせて更に強化した人間を戦士にするつもりが、バードニックウェーブを浴びただけのズブの素人を戦士に起用せざるをえなくなった。いきなり最初から修正が入ってしまったわけである。ただ、戦いの根本的な方針は組織によって定められているという限界はあり、極北はやはり『未来戦隊タイムレンジャー』(2000年)になるのだろうか。戦士に最も適任なのはこの五人だ、という保証を誰からも与えられることなく発足した戦隊。戦いの行く末に何が待っているのかすら分からないまま戦いは始まる。そしてひたすらその場その場の判断で、目の前の困難を一つ一つ除去していくだけである。
 「理念に基づいた戦い」と「現実に基づいた戦い」を対比させ、これと「集団の戦い」と「個人の戦い」という対立軸とを組み合わせれば、新しく戦隊マップが出来るはずである。ただ、どうしても日本人には、滅私奉公を尊ぶ民族性というものがあって、根本的な方針を定めるのが組織の役割であり臨機応変に判断するのは個人の役割、などという思い込みが染み付いている。理念・現実の軸と集団・個人の軸との違いがどうにもイメージしにくくて、作業がはかどらないのである。

勧善懲悪で何が悪いのか?(中編)

ガンファイターのび太
藤子・F・不二雄『ドラえもん』「ガンファイターのび太」

(承前) 結局のところ、迷子になった森の中から脱出するためには、二つの視点を同時に持つことが絶対に必要ということになる。一つは、崖とか沼とか目の前にある危険な地形を避けるという、短期的視点。もう一つは、迂回しつつも全体の道筋としては北へ向かうという、長期的な視点。そしてそれは現実の人生でも、フィクションの中のキャラクターでも同じことである。
 今ここでは向かう方向を「北」にしたが、別に北であることに根拠は必要ない。東でも南南西でも構わない。一つに決めさえすれば、どこでもいい。肝心なことは、「北」と最初に決めた以上は、途中で困難な道が延々と続き、「やっぱ東に向かったほうが良かったのかな」という気持ちが沸き上がっても、決して変えないということだ。
 「百人いれば百通りの正義がある」などと言われる。多分そうだろう。しかしたとえ「絶対的な正義」が存在しないというのが事実であっても、絶対的な正義というものが存在すると仮定した上でしか人間というものは生きられないというのも事実である。人間はそのような矛盾の中でしか生きられない。短期的な視野しか持たない人間というのは、つまりその日その日を楽しく暮らすことだけしか頭になく、一切の理想も正義も信じずに生きることであるが、絶対不可能とは言わずとも、それはそれでものすごくキツイ生き方のような気がする。
 人間の数だけ正義があるとして、じゃあ自分はこの正義に従って戦うんだ、という選択を、どのような覚悟と決意に基いて採ったのか、ヒーロー物の主人公は視聴者の前に明らかにする必要がある。A星とB星が戦争をしていて、主人公が単なる思いつきで片一方を正義、片一方を悪と決めつけて星間戦争に加担したりする、そういう勧善懲悪劇はやはり「くだらないもの」と見なされても仕方ないだろう。そういえば藤子・F・不二雄『ドラえもん』には「どっちも自分が正しいと思っている。戦争なんてそんなもん」という名言があったりするが、連載も後期に入ってのび太が「正義のため」などと口にしていたのにはさすがに驚いた。
 ところでその山の迷子の比喩での「短期的視野と長期的視野」という概念、これは戦隊の分類に使えそうな気がする。以前書いたので言えば、短期的視野が右翼、長期的視野が左翼ということになるのだろうが、右翼左翼という言葉はやっぱり手垢がつきすぎて、やっぱり使いにくい。(続く)

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