『海賊戦隊ゴーカイジャー』は男塾である
『ゴーカイジャー』には期待しないって書いちゃったし、だから何も言うことはないんだけど、第1話のレジェンド大戦を見てたら、昔「少年ジャンプ」に連載されていた『魁!! 男塾』というマンガのことを思い出した。最初は四人で戦っていたのがどんどん仲間が加わって、八人、十六人、三十二人と倍倍ゲームで増えていったらしまいには一万六千三百八十四人になって収拾がつかなくなった作品である。(と思っていたのだが、この記事を書くために単行本を読み返していたら、そのへん収録されていていなかった。やっぱり作者も描いていて変だなと思ったのであろう。それにしてもイカゲル星人がそのあとどうなったのか気になる。)
ま、そういうのもあって、ヒーロー二百人近くがどこぞの空き地に集まって小学校の朝礼よろしく整列している光景は「シュール」の一語につきる。宇都宮プロデューサーによれば、こんなもんを撮影するために大変な手間ひまと金がかかったらしい。ご苦労なことである。
海賊戦隊っていうから、今まで多くの星々を荒らしまわり略奪や強姦を繰り返してきた連中が地球を守って戦う、という話なら少しは期待したんだが。『ルパン三世』でも、宮崎駿先生が監督をなさったら、とらわれの姫君を救う正義のヒーローみたいな話になってしまって、それがシリーズで一番人気の作品だという。どうも日本みたいな国ではアウトロー物というのは難しいようだ。
レジェンド大戦の話に戻すと、どの戦隊も五人とか六人とかで戦っている中、ジェットマンだけが四人で戦っていたとしたら、多分私は目頭が熱くなっていたと思う。どうせお祭りなんだから細かいことを言うな、ということなのだろう。不完全なもの、完璧でないもののほうがかえって人の心をつかむことがある、ということが理解でき……どうでもいいかこんな話。
友里アンヌのファンはおかしい
切通理作『怪獣使いと少年』から
アンヌは『セブン』の中で、常にダンの心の支えのようなヒロインとして描かれていた。恋の告白やラブシーンなどは一回もないのにもかかわらず、視聴者の子どもたちはダンの恋心をよくわかっていた。「零下140度の対決」で、雪の中に倒れたダンは、アンヌが基地でいれてくれる「あったかいコーヒーとスチームが僕を待っている」と自らを奮い立たせる。僕にはこのセリフは「あったかいコーヒーとアンヌ(原文では傍点)が待っている」と、ずっと聞こえていた。おい。
妄想を根拠に論を組み立てるな。
『ウルトラセブン』は古典だから、教養として身につけておかなくてはと思って第1話から見始めたんだが、あんまり退屈なんで途中でギブアップしてしまった。『セブン』ファンには悪いが、「今見ても面白い」とか言う人は、“思い出補正”で目が曇っているとしか思えない。
私は当然友里アンヌに注目して見た。第26話「超兵器R1号」。超兵器計画にはしゃぐウルトラ警備隊(アンヌ含む)、一人だけ暗い顔をしてつぶやくダン、「血を吐きながら続ける、悲しいマラソンですよ」。第42話「ノンマルトの使者」。本当の地球の原住民は誰なのか苦悩するダン、「人間が人間のことを考えるのは、当然のことじゃない。海底は私たちにとって、大切な資源よ」とアンヌ。
「常にダンの心の支えのようなヒロインとして描かれていた」? 嘘をつくな。アンヌが何かしゃべって、ダンの孤独はいっそう引き立つ、そんな描写ばっかりだぞ。
途中をすっ飛ばして最終二話「地上最大の侵略」を見たら、これはよくできていた。で、この回のアンヌに深い感動を覚えた視聴者が、これまでずっとアンヌがダンを支えてきたかのように錯覚したんだな。
女のほうは、別に男に尽くしたいとか全然思っていないにもかかわらず、男のほうは勝手に今まで自分がそうされていたと思い込む。現実にはよくある話である。こじらせるとストーカーになったりする。
しかし現実の女性相手ならともかく、テレビの中のヒロインに対してそんな感情を抱くのは、気持ち悪いからやめたほうがいいと思う。
女性の戦争協力と『電撃戦隊チェンジマン』
「戦争で犠牲になるのは、いつも女と子供ってわけか」
というのは『電撃戦隊チェンジマン』第27話「ゲーター親子の夢」の疾風翔のセリフである。1985年当時にあってはこのような女=犠牲者という、安直な図式が罷り通っていたんだなあ、と見ていて思ったが、よく考えたら今もあんまり変わらないのであった。
たとえば日本において大東亜戦争についても、こういう言い方がよくされる。まあ確かに女性に選挙権はなかった。しかし、上は政府の諮問機関に就任した女性委員から、下は国防婦人会で活動した主婦まで、積極的にあの戦争に協力した女性たちがいた。現在の観点からそれを愚かしい判断だったと裁断するのは、後出しジャンケンというものだ。彼女たちは未曾有の国難に対して、女性である自分は一体何をすべきかと考えた上で、米英撃滅・聖戦完遂に協力しようと思ったのであるし、それを「犠牲者」の一言でくくるのは、何か男たちにだまされて無理矢理戦争に協力させられたような図式におさめてしまうことになる。女性にも自主性があることを認めようとしない、きわめて男性中心的な考えといえる。
戦隊シリーズにおいても、ヒロインも単にレッドの指示に従って戦うだけの存在から脱却し、それが定着を始めてきた時期にこのセリフである。そういえば疾風には自分のことを「フェミニスト」と呼ぶセリフもあった。現在は死語だが、「女に甘い男」という意味で当時使われていた。それは、女性蔑視の裏返しでもあるということを、このエピソードは示そうとしていたのかもしれない。実際、疾風はこの回ひどい目にあうわけだから。
ところで、大東亜戦争における女性の戦争協力については最近も研究が活発に行なわれてきたようで、好ましいことである。鈴木裕子『フェミニズムと戦争』もその一つなのだが、市川房枝等、なぜ女性たちは戦争に協力したのか?という問題設定で書かれているのが何か変である。そもそも戦争がなぜ起こるのかといえば、やっぱりそれだけ人を熱狂させるものがあるからだろう。男が熱狂するんであれば、女だって熱狂しておかしくない。どうも、女というのは命をはぐくみ慈しむ性なのであるから、戦争には反対するのが当然であり、反対しなかったということは、なにか原因があったに違いない……という思い込みがあるみたいだ。
そういう「女とはこういうもの」という決めつけって、差別につながるんじゃないの?
戦隊シリーズにおける規律と自発性
山本直樹『レッド』3巻150頁
煮詰まって半年ほど戦隊について一字も書けない日々が続いていたのだが、そんな時に山本直樹氏のマンガ『レッド』を読んでいたら、長年頭の中にかかっていた靄がスーッと晴れるような気がした。戦隊シリーズが三十年以上ずっと孕み続けてきた問題点が何なのかがやっと分かったのだ。(ちなみにこのマンガのテーマは連合赤軍である。)
「俺はもう辞める!」戦隊シリーズでも時々こういうことを言う戦士が出る。そういう場合でも、まあいろいろあって使命感を取り戻してまた一緒に戦おうという話になる。じゃあ、どうしても気が変わらなかったらどうなるんだろう? (戦士の代わりはいないとする。)
ぶん殴るか、脅したりすかしたりするか、ともかく首に縄をつけてでも戦場に引っ張っていくことになるんだろう。いやそれはおかしい、戦いは自発的なものでなくてはならない。戦うのが嫌だと言っている人間に戦うことを強制しなくては宇宙人の侵略から地球の平和を守れないというのであれば、地球なんか侵略されてしまうしかないのだ。――こういう意見はそれはそれで問題だし。
そして、離脱を希望したメンバーを許さず、無理矢理連れ戻そうとし、あげく処刑した革命左派→連合赤軍は、後はひたすら同志殺しへの道を突き進むことになった。
チームの規律を維持することと、個々人の自主性を尊重することは、絶対に両立しない。戦隊ファンは誰もあんまり論じようとしないことだが。
電撃戦隊チェンジマンの伊吹長官は本当に殴ってた。あんなの今出したら大問題だろうな。
それはそうと。
特撮の脚本家では、上原正三先生について語ろうと思えば沖縄出身であることをぬかすことはできない。だったら曽田博久先生については全共闘について触れることが不可欠のはずだが、特撮雑誌でインタビューする際、誰ぞライターの方、このへんを突っ込んで聞いてくれないのだろうか。「1947年生まれで横国大」なんて、絶対に面白い話が聞けるはずだって。
地球人なら地球を守って戦うのは当然か
[雑感]少年の殺人は減少
私の行きつけのブログ「紙屋研究所」に、こんな記事が出ていた。
青少年の犯罪が減っているらしい。で、そこから導き出される結論が「世の中はいい方向に向かっている」。
なんでそうなる!?
犯罪が減れば世の中がよくなるんだったら、じゃあ街中に監視カメラをどんどん設置し、警察の権限ももっと強大にし、管理社会化をガンガン推し進めれば、もっと理想の社会が出現するぞ。それでいいのか。
犯罪が減る→世の中よくなっている。こういう安直な発想に、ファシズムはしのびこんでくるのだ。この人はコミュニストと名乗りながら、こんなことも知らないのか。
今の日本の社会は絶望的だ。政治も経済も最低である。人心が荒廃し治安なんか悪くなって当然なのだが、そうなっていないのはなぜか? 今の若者は、絶望を絶望と感じることすらできないほど、管理抑圧されているのだ。――左翼だったらこう考えるのが当然だろう。というか、こんなに青少年の犯罪が減り続けているということは、戦後の自民党の政治がいかに善政であったかを証明するものだ、なんて言われたらどうやって反論する気だ。こんな体たらくだから、日の丸や君が代の強制に対してロクな反撃もできないのだ。
最近の若い人の書いてるものを読むと、左翼だろうが右翼だろうが、一見政府のやっていることを批判しているような人でも、心の奥底に「どうせ世の中変わらない」という思いが頑強に巣食っているのが垣間見える。どいつもこいつも体制側の手先みたいな発想をする。
だからスーパー戦隊シリーズでも最近のは、宇宙人や異次元人が攻めてきた、ようし地球人としてみんな心を一つにして侵略者をやっつけ、地球の平和を守ろう!みたいな発想しかできないのだ。地球の平和? アメリカが世界中で好き勝手やってるのが「地球の平和」なのか? 世界中で紛争や内乱の絶えぬこの地球の現状を、なんで守らにゃならんのだ? 地球人なら、地球を守るために戦うのが当然? パレスチナに行って同じ質問をして来い!
『鳥人戦隊ジェットマン』(1991年)では「人間なんぞ滅んじまったほうがいいんじゃねえの?」と言うような奴が戦士をやっていた。今こそこの作品の持つ意味を考えるべきだ。
連合赤軍事件から逃げたフェミニスト
連合赤軍の女兵士が夢見たもの
ある人について書いた文章をサイトにUPして、ちょうど同じ頃にその人が死ぬというのは、単なる偶然といえども、いやーな気持ちになる。
1982年の第一審の死刑判決自体は、現行の法体系からしてみれば無理のないところだとは思うが、問題は判決文だ。当時の左翼運動が孕んでいた問題点なんか全部無視して、事件の原因をすべて永田氏の個人的な資質に帰している。「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」という、そのあまりに差別的な文面に、左翼でもないのに抗議の声を上げる女性が出たほどだ。
当時、女性活動家という存在自体が珍しかったわけではない。男の活動家の手助けをし、指示に従い自らも活動する者は、「美人闘士」としてマスコミなどでももてはやされたくらいだ。それが、リーダーになって男を指導するような「出すぎた」真似をすると叩かれる。国家権力・マスコミによる永田叩きには、左の陣営の中にさえ同調する人がいた。
そういう構図は、今も昔もあまり変わらない。スーパー戦隊シリーズのヒロインがいくら活躍したところで、終盤のクライマックスに突入すると、たいてい男の指示に従って動くだけになる。なぜゴーグルピンクが例外的に男と対等の立場に立てたかというと、ゴーグルファイブが「組織」ではなく「自立した個人の集まり」だったからだ。そしてそんなものは実現不可能な理想だと、元全共闘の脚本家の曽田博久氏には、たぶん分かっていたのではないか。
フェミニストの上野千鶴子氏は『現代思想』2004年6月号「女性革命兵士という問題系」によると、連合赤軍問題から目をそむけ逃げ続けてきた人らしい。
この人の書くものにずっと不信感を抱いていた自分としては、すごく納得の行く話であった。
『海賊戦隊ゴーカイジャー』には期待しない
『ハイパーホビー』三月号で『海賊戦隊ゴーカイジャー』の宇都宮プロデューサーが「地球人ならば地球を守って戦うのは逃れられない当然のこと」などと言っていて、それを読んだら最近の戦隊がつまらない理由がよーく分かったような気がした。
シリーズ作品の一つ一つを丹念に見ていくと、戦う動機には二種類あることが分かる。公的なものと私的なものだ。「人類は今何をすべきか」という観点に立って戦うことを選択するのが前者、「自分は今何をすべきか」という観点に立って戦うことを選択するのが後者である。そして、やっぱり名作と言われ評判の高い戦隊は、大概そのへんの問題をきっちり考えている。
戦隊シリーズの熱心なファンは、だから、個人主義もナショナリズムも共におろそかに扱っていいものではないと分かっている。ただしナショナリズムに安直に寄りかかって話を作るほうが簡単なわけで、まあ最近のように、おもちゃを次から次へと出すために絶えずパワーアップ合戦で盛り上げなくてはならない状況だと、それも仕方ないのかなという気もするが。
それはそうと。
戦隊にとって一番大事なのはチームワークだと思っている人は多い。しかし一人一人の戦士が自立した強さを持っていることもまた大事であって、この二つは実は両立するものではない。また公私合計の動機の高い低いで、ヒーローを超越的存在にするか人間ドラマ重視にするかが決まる(あんまり低いと話が成立しないから、そこは点線を引いた)。
すべての戦隊について、たとえば「公60私25」とかいうふうに分析し、分布図を作れば、スーパー戦隊の歴史が一目瞭然になる図ができるのではないか。何ヶ月かかるか分からんが。
ところで『ゴーカイジャー』についてだが、五人とも宇宙人であって、地球を守る義理なんぞ全然ない連中が地球を守って戦うというのがミソだそうだ。本当にこのテーマに一年かけて真正面からぶつかるのであれば、少しは期待してやってもいい。
怠けてばかりで申し訳ない
半年以上ネットから離れていたわけだが、たまりにたまったメールに目を通していたら、大川めぐみ氏と知り合いだったという人からのがあった。
サイト始めてから五年以上たつわけだが、こんな怠け者ではなく、もっと真面目な人間が運営していれば、彼女の人気ももっと盛り上げられたかもしれん。
『大戦隊ゴーグルファイブ』と全共闘
『大戦隊ゴーグルファイブ』(1982年)はいろいろ変わった戦隊だが、一番変わっているのは、司令官の役をつとめるのが五人の小学生という点であろう。
劇中でも一応理由が語られてはいるが、分かったような分からないような説明である。これはメイン脚本家の曽田博久氏が元全共闘の活動家であることを知っていると理解しやすい。
普通の戦隊だと、司令が作戦を立てて指示を出し、戦士はそれに従って戦う。作戦を誤り失敗に終わることもあるが、その場合は司令の責任である。ところがゴーグルファイブの場合、司令の責任を追及することができない。小学生だから。ちょっと責めるとすぐに泣いたり拗ねたりする(実際第4話はそんな話だった)。つまり五人の戦士は、常に自主的な判断で行動し、戦うことが求められる。「自分は指示に従っただけ」という言い訳をしたくても、責任を引き受けてくれる上司がいないのである。
それが一番端的に現れているのがヒロインである。普通の戦隊だったら、そんなのは女の子には危険だとか俺が一緒に行ってやるとか、仲間の男から絶対に言われるようなことでも、ミキは全然言われない。彼女は自分で勝手に作戦を立てて自分で勝手に敵に戦いをいどむ。みんな自主性で動くことになっているからだ。そのかわり、勝手に行動した結果ピンチになっても、仲間が助けに駆けつけて来るのを当てにすることはできない。
要するにこれは組織ではない。「自由な個人の連帯」である。全共闘運動が当初めざしていたものがまさしくこれであり、曽田氏は自分が学生運動で挫折したのを、その後脚本家になって初めてテレビでメインライターを担当することになって、こんなところでリターン・マッチをやっていたのだ。ただ全共闘が、セクトの引き回しに対してなんら抗うすべを持たず敗北したように、地球の平和を守る五人の戦士が組織的に行動しないというのはやっぱり色々不自然なわけで、翌年の『科学戦隊ダイナマン』からは普通に司令官として大人の科学者がいて指示を下すようになる。
桃園ミキがあれほど人気が高かったにもかかわらず、二番煎じを生まなかったのも納得がいく。それはあまりにも理想主義的なヒロインだったからだ(逆に言えば、現実的でないということ)。
ところで全共闘の有名なフレーズ「連帯を求めて孤立を恐れず」は谷川雁の『工作者の死体に萌えるもの』という本が元ネタらしい。
死体萌えってそんなに昔からあったのか。
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