パーマンをやることは義務なのか(その2)

ぞうとおじさん
藤子・F・不二雄『ドラえもん』「ぞうとおじさん」。このコマだけは大人になってから読んでもじわじわくる。

 (承前)いちおうここはスーパー戦隊のブログである。それがなぜ最近藤子・F・不二雄先生のマンガの話ばっかりしているかというと、それが「子ども向け作品とはどうあるべきか」という問題について考える際の、格好の補助線になると思うからであって、最後はスーパー戦隊の話に着地させる予定である。
 子ども向け作品を作るにあたっては二つの立場がある。一つは、子どもが喜びさえすればそれでいい、というもの。もう一つは、子どもが喜ぶのは当然として、その子どもが成長し大人になってもなお心に訴えかけるものがあるような作品であるべきだ、というもの。どっちが正しいかを性急に決めるつもりはないのだが、ただ伝統的には特撮ヒーロー物というのは後者でずっとやってきたわけだし、最近になって前者の立場が大きくなってきたことに対する反発の声が上がるのは当然であろう。その二つの異なる考えが存在しているということを、まず理解しておく必要がある。

 さて、『ドラえもん』の「ぞうとおじさん」もまた、大人になってから読み返すと非常に違和感を感じる話である。
 なぜドラえもんとのび太はゾウ一匹救って大満足なのだろうか。
 タイムマシンを使って過去を改変するなどという行為が許されるのであれば、なぜ第二次世界大戦の勃発そのものを防がないのか。大きな改変は許されないが、小さな改変は許されるという話なのだろうか。だったら、同じ動物園のトラやライオンもついでに救おうと思わなかったのか。それで大して手間が増えるとも思えない。戦中に殺処分された動物園の生き物は、他にもたくさんいたということを知らぬはずはあるまい。
 タイムパラドックスがどうのこうのという、SF設定のまずさは今はとりあえず棚に上げておく。問題にしたいのはドラえもんとのび太の心である。ゾウはかわいい動物だから救わなければならないが、トラやライオンなんか別に殺されたところでどうでもいいという考えのもとにドラえもんやのび太は行動したというのは紛れもない事実である。そしてそれが心あたたまる感動的な物語として、この国の子どもたちによって読み継がれてきたという事実を、一体どのように考えたらいいのか?(続く)

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