なぜ元ヒーローのブログは恥ずかしいのか

 先日、何気なくある戦隊ヒーロー俳優の名前で検索をかけていたら、なんかものすごく恥ずかしい物を見つけてしまった。

佐村河内守・交響曲1番「HIROSHIMA」(2012年11月10日)
 佐村河内守氏のゴーストライター騒動は2014年2月である。その時、それまで佐村河内氏の音楽の素晴らしさを称えるような記事を載せていたブログは、当該記事を一斉に抹消した。まるで、自分は今まで佐村河内氏の音楽を称えたことなど一度もありませんよ、とでも言うかのように。それはそれで卑怯な態度だとは思うが、しかし記事を上げたことを忘れ、放ったらかしにする人もいることを思えばまだ随分とマシという気がする。
 それにしても、かつてヒーローを演じたことのある俳優がやっているブログやツイッターやフェイスブック等々は、なぜああも恥ずかしいのだろうか。
 現在俳優を続けている人はいい。今は別の職業についたり、何か社会的な活動をやっていて、その内容を報告するという明確な目的を持っているブログも同様である。それ以外の人のやっているブログは、恥ずかしいエントリを上げたから恥ずかしいとかいうのではなく、もう存在そのものが恥ずかしい。
 いや、そもそもブログとはそういうものであって、元ヒーローのブログが特に恥ずかしいわけではない、という反論があろう。昼飯は何を食ったとかいう、どうでもいいような身辺雑記を延々と続けたり、普段から本なんか全然読んでいないくせに政治について語ったりするブログなんてのがよくある。それを無名の人間がやっているのであれば、別に恥ずかしくはない。平凡な人間が、自分は昼飯に何を食ったかという情報すらニュースバリューが生じるほどのVIPだと勘違いする。単によくある話である。
 しかし元ヒーローの場合、俳優業を引退して何年経とうが、ファンにとっては雲の上の存在である。もちろんそんな幻想につきあう義務があるわけではない。自分は今は普通に社会人やってます、という態度をとるならとるで構わない。そして、そういう人のブログの中味が身辺雑記や床屋政談だったりする。
 カッコいい人間であることを求められている人が、カッコいい人間であろうと努め、結果それが傍目に全然カッコよくない。この三拍子がそろうことは滅多にあるものではない。

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