スーツアクターという難題
鴬谷五郎編著『東映ヒーロー仮面俳優列伝』
スーツアクター二十人にインタビューした本。
二階建ての家の屋根から落ちるとか(下はマット一枚)、炎の中や水の中でアクションをしたら息ができなくなって死にそうになったとか、そういう話が普通のこととして出てくる。安全管理をおろそかにしているわけではないとは思うが(多分)、危険が多いのはやむをえないことではあるし、そうやってアクションに文字通り命を懸けている人たちに支えられて、スーパー戦隊シリーズや仮面ライダーシリーズは続いているのだ――と素直に感動しておけばいいのであろうが、しかし釈然としないものも残る。
アクションパートがこれだけ高いプロ根性によって支えられている一方で、プロデューサーや脚本家や素面の役者のあの意識の低さはなんなのだろう?
どうも最近のこのプログ、キャストやスタッフが雑誌のインタビューで喋ったこととかブログに書いたこととかに対して、やたらと怒っているような気がするが、これは別に誰か問題発言をしていないかと意識的に探してやっているわけではない。特に何もしなくても普通に目に入ってくるんである。おかげでブログのネタに事欠いたためしがない。
そもそもスーツアクターというのは報われない職業である。どんなに頑張っても子供に人気が出ることはない(というかむしろその存在を悟られないことこそが勲章である)。重労働で危険性大、そしてそれに見合うだけの給料が出るわけでもないらしい(というようなことはこの本には載ってないが)。
モチベーションは一体どこから湧いてくるのだろうか?
子供たちに夢を与えたい、子供たちに少しでも質の良い作品を見てもらいたいという情熱が彼らのアクションを支えているのだ、と言えば模範回答になるのだろうが、だったらプロデューサーや脚本家も、彼らのそのような命懸けの思いに感化されて自分たちもしっかりしたストーリーを作ろうとか、そういうことを少しは思ってもよさそうなものだ。
というか、そもそもこの本自体、スーツアクターの人たちの、自分のアクションを素晴らしい物にしたい、自分の演じるキャラクターを魅力的なものにしたい、という気持ちがひしひしと伝わってくる一方で、作品を良い物にしたいという思いは全然出てこない。自分に与えられた仕事だけに全力を尽くし、それ以外には無関心、それこそが真の職人魂ということなのだろうか。しかし本当にそれでいいのか?
仮面ライダーは面白くなければいけないのか
白倉伸一郎氏はアンチも多いがファンも多い。自分は生産者の側の人間なのだから当然生産者の立場に立つ、消費者の立場は二の次である、とはっきりと宣言していることが、一種の清々しさを感じさせるからであろう。『仮面ライダー1号』公開を記念した井上敏樹氏との対談では、
仮面ライダーっていうのは「あって当たり前」、よくも悪くも、っていうのは一つのゴールなんですよ。なんか変なことやってるなっていうことじゃなくて「あって当たり前」っていうふうになっててほしい。でも、ま、見ていて面白いかどうかは(以下笑い声が起こって聞き取れず)笑い声が起こったのは、話の流れから、そんなものが見ていて面白いものではないことは分かりきっているからである。分かっていて、作る側の都合として、そうしたいと言っているのである。
「スーパーヒーロー大戦」のパンフレットで、自分の仕事は劇場に足を運びたいと客に思わせることであり、その客が満足して家路につくかどうかには関心がないかのような発言をしたこともある。
たとえて言えば、ビール会社の社長が、私はビールの味には関心がない、関心があるのは広告とかがうまくいって売れるかどうかだけだ、とあたり構わず公言しているようなものである。
その社長が、ある日突然「みなさん、うちの会社のビールはおいしいと思いますか? 私は最近おいしいと思ったことがない」などと言い出したらどうか?
消費者としては戸惑うだけだ。「あんたに酒の味なんか分かるの?」と。
『仮面ライダーアマゾンズ』の制作発表会で、白倉氏が「最近の仮面ライダーを面白いと思ったことがない」などと言ったことが、大して話題になっていないということは、多分そういうことに違いない。
『ドライブ』や『ゴースト』といった最近の仮面ライダーをつまらないと思っていた人たちの間からは、この発言を歓迎する向きも見られる。ライダーシリーズを安定して続けるためには『サザエさん』化する以外になく、実際そうしてきたが、それは地上波の制約があったからであって、動画配信ならもっと思い切ったことができるはずだ――とでも思っているのだろうか。しかし、今まで「仮面ライダーは面白くある必要はない」と言っていたまさにその当人の口から、「次からは本気を出す」みたいな言葉を聞かされても、なにをどう期待しろというのか。
とうとう全否定された『仮面ライダークウガ』
炎上商法の達人の名をほしいままにしてきた東映の白倉伸一郎プロデューサーも、さすがに最近は疲れているようだ。
三月十八日に行なわれた『仮面ライダーアマゾンズ』の制作発表会では例によってとんでもない発言をやらかしたのだが、ツイッターでも反応は鈍い。飽きられた、というのもあるだろうが、どうも発言の真意が理解されていないようにも見受けられる。
東映の取締役という偉い立場にいながら「最近の仮面ライダーは面白くない」などと、懐古厨みたいなことを言ったもんだから、もっと騒ぎになってしかるべきだが。ただソースによって微妙に発言内容が違っている。マイナビニュースでは「牙を抜かれた仮面ライダーに牙を」、アニメイトTVでは「トゲを抜かれた仮面ライダーにトゲを」。これは瑣末な問題としても、前者にだけあるのが
関わる人が増えた分、やれることが制限されて丸まってしまっている。後者にだけあるのは
『仮面ライダークウガ』や『仮面ライダーアギト』でやれたようなことが今は出来ない。つまり後者のソースでは、理由も言わずに最近の仮面ライダーはつまらん、それに比べて自分が手がけていた頃のはよかった、という老害丸出し発言をしたということになる。
特撮ファンとしては、そんなの相手にしようもない。
しかし白倉発言で本当に問題にすべきなのは、四十五年の仮面ライダーシリーズの歴史において、いまだ『アマゾン』以上の異色作を生み出すことができていない、と言ったことの方である。
2000年に『仮面ライダークウガ』が始まった時には「こんなものは仮面ライダーではない」とずいぶん言われた。そしてそれ以降も、野心的な挑戦作と世間で騒がれた作品がけっこう作られたような気がする。しかし白倉氏に言わせれば、そんな挑戦など昭和ライダーである『アマゾン』にも及ばないらしい。平成仮面ライダーは、仮面ライダーというヒーロー像の枠を一ミリも広げられなかったと言ったも同然である。
このところ白倉氏は、平成ライダーの価値を下方修正する発言が続いている。
氏は平成ライダーの発展拡大に寄与してきたと、誰もが認める人であるから、一連の発言は謙遜からきたと解釈できないこともない。ただ『クウガ』ファンだけは、この発言に少しくらいは怒ってもいいのではないか。『クウガ』は白倉氏の作品ではないんだから。
誰が橋本環奈を殺したのか?(後編)
(承前)『セーラー服と機関銃 -卒業-』に関するレビューを集めていたら、「アイドル映画だからストーリーは要らない」という意見のあまりの根強さに暗澹たる気持ちになった。
要らんわけないだろう!
一般映画には一般映画の文法があるように、アイドル映画にはアイドル映画の文法というものがあるのだ。それは一般映画の文法(起承転結とか)とは違っているから、見慣れていない人からは意味不明なことをやっているようにも見える。しかし本当にすぐれたアイドル映画を作るのは、難度の高い作業である。すぐれた一般映画を作るのと同様に。
美少女がいる。その資質を見極め、どのようなコンテキストに置けばその美少女を最も美しく光り輝かせることになるのかを考え、そしてそれを元にストーリーは作られねばならない。『セーラー服と機関銃』の旧作もまさにそのような映画である。しかし現状は美少女が顔アップでカメラにニッコリ微笑んでさえいればファンは満足するだろうとしか考えていない連中によって現場は占められているし、そして実際ファンもそれに満足している。
橋本環奈氏は、当初はあどけなくかわいい女組長を無難に演じることを期待されていたに違いない。ところがいざ撮ってみれば牝虎だった。ファンとしても期待の外のことであっただろう。まあそれはそれで「環奈ちゃんはこんな演技もできるんだ」という楽しみ方をすればよい。しかしその牝虎は、悪党どもの喉笛を次々と食い散らかしていくわけではないらしい。千年に一人の逸材だというのが本当だったとしても、その「怪演」を見るためだけに、退屈なストーリーは我慢しろというのであれば、ファン以外の人間にとっては観に行きたくなる気持ちなど起きるはずもないのだ。
アイドル映画をなめるんじゃない。
ヤクザの組長がハマっている十七歳の美少女。例のレビューが本当だとすれば、なんと希少な資質ではないか! そんな類まれな才能を持った少女を、そんなもったいない使い方をしているのか。面白いドラマチックな話がいくらでも作れるだろうに。
え、そんな資質、普通のドラマじゃ使いようがないって?
だったら特撮によこせ。いや、来てください。お願いします。
誰が橋本環奈を殺したのか?(前編)
角川映画40周年記念映画『セーラー服と機関銃 -卒業-』が大爆死らしい。
今年は東映特撮にとってもメモリアルイヤー、仮面ライダー45周年とスーパー戦隊40作目の年ということで色々控えているというのに何と不吉な。プロデューサーの名前を見たら井上伸一郎、って『キカイダーREBOOT』の人か! こっちの伸一郎は大丈夫だろうな。
別に興味もない映画のことではあるが、「「セーラー服と機関銃 -卒業-」をすごく観たくなるレビュー」というのがたまたま目に入ったら、観たくなるどころか怒りがフツフツと湧いてきた。だいたい関係者でもなければプロの映画評論家でもない、一介のファンの書いたレビューが話題になるということ自体、常軌を逸している。
そもそも『セーラー服と機関銃』は、フツーの女子高生がある日いきなりヤクザの組長になってしまうという、そのミスマッチの妙が売りの作品である。ところがこのレビューによると、主演の橋本環奈氏がヤクザにハマリ役だったらしい。それは一周回ってミスキャストじゃないか。
そういえば公開前も、橋本氏の十七歳とは思えぬ肝っ玉の座った態度と高いプロ意識が記事になっていた。小学校三年生から芸能界の水に浸かってきたというのであれば、そういうこともあるかもしれない。しかし、十七歳にしてもう初々しさがないというのは、アイドルとしては致命的な欠点だぞ。彼女が『セーラー服と機関銃』には合っていないのは、もう最初から関係者には分かっていたんじゃないのか。
ダイヤモンドの原石を、どのような磨き方をすれば最も光り輝くだろうかと検討に検討を重ねた結果として『セーラー服と機関銃』が選ばれた、というのではあるまい。薬師丸ひろ子も演じた往年の名作であれば、スポンサーも見つけやすいし、マスコミも好意的な記事を書いてくれるに違いないという計算先にありきだったことは容易に想像がつく。過去作に依存した安直な商売をやっているのは我が東映特撮の専売特許ではないようだ。まあ、橋本氏が本当にダイヤの原石かどうかは分からないし、ただの石ころだったのかもしれないが、ちょっと磨いてみて光らなかったらすぐに捨て、また新しい原石を拾いに行く、そういうことを日本の芸能界はずーっとやってきたわけだし、今さら腹を立てるようなことでもない。
腹が立つのは、「アイドル映画」を一般映画に比べて程度の低いものだとみなす考えのほうである。(続く)
高寺成紀はなぜ戦隊を悪く言わないのか(後編)
(承前)『カーレン』『メガレン』『ギンガ』の三作は、戦隊シリーズとしては理想的な成功を収めた作品であったといえる。ところがそのチーフプロデューサーを務めた高寺成紀氏は、『語ろう』本に載ったインタビューなどから判断する限り、不本意な失敗作と思い込んでいるようだ。
スーパー戦隊シリーズがかくも長きにわたって成功を続けてきたその秘訣は、保守と革新のバランスにある。伝統的なノウハウをおおかた受け継ぎつつ、時代の変化に応じて少しずつ古いものを捨てたり新しいものを付け加えたりしていく。「この作品から戦隊の歴史は変わった」というような急激な変化は必要ない。必要なのは、時流とともに徐々に変わり続けることであり、それはまた難度の高いことでもある。そして上記の三作品は、確かにそれをクリアしている。
ところが高寺氏は、自分の手がけた作品は100%革新的なものでなければならない、と思い込んでいるように思われる。
もちろんそれは勘違いなのだが、その思い込みが奇跡的にプラスの方向に働いたことがある。『仮面ライダークウガ』(2000年)である。仮面ライダーシリーズ十年ぶりのテレビ放映とあっては、さまざまな想定外の事態が次から次へと降りかかったことであろうし、それを乗り切るためにはバランス感覚よりも、思い込みが生み出す突進力のほうが、役に立ったのかもしれない。
そして平成仮面ライダーも作品数を重ね、安定期に入ることが望まれるようになった時、そのような手法は仮面ライダーシリーズからは不要になったのである(もちろん2005年の『仮面ライダー響鬼』のことである)。
高寺氏がプロデューサーとして有能な手腕を持った人であることは疑いえない。実際戦隊シリーズで実績を上げた。そしてそんな人材を、映画やテレビ番組制作の現場はいつでも喉から手が出るほど欲している。ところが高寺氏の思い込みが、氏に働き場所を与えない。だいたい『クウガ』にしたって東映の血を受け継いでいる部分も決して小さくはないのだが。しかし『クウガ』は非東映的な作品なんだ、100%革新的な作品なんだという思い込みを、氏は近年ますます強めていっているような気がする。
なんか色々もったいないことである。
誰が千葉麗子を勘違いさせたのか
千葉麗子(『恐竜戦隊ジュウレンジャー』1992年、プテラレンジャー=メイ役)がいかに勘違いした言動をさらそうが、それは自己責任というものであるし、別に同情する気もないが、勘違いさせた人間にも責任はあるのではないか。責任をとれとは言わないが(そんなことは不可能である)、責任を感じるぐらいのことはしてもいいだろう。
『スーパーヒロイン画報』(1998年)を読み返していたら、こんなコラムが載っていた(無署名)。
ハードなアクションの間に微妙な感情表現を見せる必要のある、非現実的な特撮作品にあり、無垢な素材だった彼女は磨きを掛けられ、より多面的な輝きを発揮する様になる。なんじゃこりゃ?
こういうのを読んでいると、つくづく女性タレントにとって顔は命なのだと思う。顔さえかわいければ、どんな大根でもダイヤモンドの原石ということにされる。もっとも賞味期限は長くない。顔の他に、演技力とか何でも一つは芸を持っていないと、あっというまに飽きられて消え去るのみ。千葉氏が1995年にまだ人気のあるうちにさっさと芸能界からの引退を決断したのは、やっぱり自覚があったからだろうか。
それから二十年。もはや若いころの面影もなく、それでも昔はアイドルだったというだけの理由で、ろくに勉強もせずに社会運動の広告塔がつとまってしまった時、彼女の勘違いが始まったに違いない。自分は美人なのだから(実態は過去形なのだが)チヤホヤされるのが当然であり、チヤホヤされ方が足りないと思えば、もっとチヤホヤしてくれる居場所を求めてどこへだって行くだろう、右だろうが左だろうが。
もっともチバレイに関しては、周囲の環境のせいでああなったのではなく、元から性格的にああいう人だったという話もある。ただ、戦隊OG(OBもか)で芸能界なんかとっくの昔に引退した人が、多少なりとも自惚れが入ったような言動を見せるたびにヒヤヒヤする。そしてブログなんか始めて、そのコメント欄に「×十年前と何一つ変わらぬ美しさ。感激しました」などと書いてる奴を見るたびに、「勘違いさせた場合の責任」について問いただしたくなる。もっとも自分が子供の頃に憧れの存在だったヒロインに対して、そういうことを書きたくなる気持ちは分かる。痛いほど分かる。しかしなあ……。
難しい問題だ。
高寺成紀はなぜ戦隊を悪く言わないのか(前編)
自分が心の底から好きなものを貶されて怒らないのなら、その人は本当のファンではない。
高寺成紀氏が例によって宇宙刑事をディスるツイートをしているのだが、それに対して憤慨しているファンを見ない。
【ビバ怪】今思えば「宇宙刑事」シリーズのフォーマット主義に、円谷教徒であるが故に不信感を抱いていた自分からすると「ああいうやっつけ的な作品をルーティンで撮ってる大人は、他人に興味のない冷たい人達なんだ」と思い込んで、研修に臨んでいた気がします(2016年2月26日)ちなみにその後考えを改めたという話ではない。
怒らない理由は想像がつく。この高寺氏の指摘は半分は当たっているからだ。そして半分は当たっているという事実を認めたくないから無視する以外にないのである。
だいたい高寺氏にしろ、また宇宙刑事シリーズのファンにしろ、彼らの頭のなかにあるのは、極めて単純幼稚な図式である。
革新=良いもの
保守=悪いもの
人間というのは元来保守的なものである。なにかやってうまく行けば、それに縛られ、新しいことにチャレンジすることに臆病になる。だから必要以上に「革新」へと急き立てる必要がある。しかしだからといって、革新的でさえあれば何でもかんでも良い作品、保守的なら何でもかんでも悪い作品というわけでもなかろう。温故知新。要はバランスである。
『宇宙刑事ギャバン』(1982年)もどちらかと言えば保守的な作品である。斬新であったと言えるのは銀ピカのヒーローというデザインワークだけで、脚本や演出法にそれほど新しいものはない。だからダメな作品だというのが高寺氏であり、それに反駁するために、革新的な作品だとこじつけてでも言い張ろうとするのが宇宙刑事ファンである。そして間違っているのは両方である。
そういう意味で不思議なのが、なぜ高寺氏は戦隊シリーズを悪く言わないのであろう。だいたい東映のプロデューサーの間には、仮面ライダーをスーパー戦隊より格上だとみなす風潮がある。ところが高寺氏にはそういう発言は見当たらない。1996年から1998年、三年連続して戦隊シリーズのチーフプロデューサーを務めたことがトラウマになっているのだろうか。『カーレンジャー』『メガレンジャー』『ギンガマン』、いずれも評判の良い作品である。そしてその評判の良さがほろ苦い体験になっていることは容易に想像がつく。(続く)
『仮面ライダー1号』、井上敏樹、「七光」?
竹中清・井上敏樹『伊上勝評伝』
井上敏樹×白倉伸一郎 緊急対談「変身し続ける男たち――映画〈仮面ライダー1号〉公開記念特別番組」で、井上氏に脚本を依頼した理由を聞かれた白倉氏の発言
なんだかんだいって、伊上さんというメインライター、仮面ライダーの、血筋を継ぐ、じゃないけれど、という方でもあるじゃないですか。それは他の誰にも持っていない、血筋、なんですよね。そこ、運命的なものがあるんじゃないのかなあという気がしますよね。言うまでもないことであるが、井上氏が脚本を依頼されたのは、優れた力量を持ったプロであり、作風も今回の企画に合っているからであって、それが伊上勝氏の息子だったというのは単なる結果である。いくら東映が出鱈目な会社とはいえ、血筋が理由でスタッフの起用が決まることなどありえない。
ただこの発言で気になるのは、初代『仮面ライダー』のメイン脚本家を務めた人間の息子が今回脚本を担当するということが、この映画にとってセールスポイントになるとプロデューサーの白倉氏が本気で考えている、ということである。実際ツイッターなどでの反応を見ると、その判断は当たっているようにも思える。
井上敏樹という人は親孝行な人である。『伊上勝伝評伝』という本への寄稿文からも、業界の偉大な先輩として尊敬し、また父親として深い愛情を持っていることがひしひしと伝わってくる。それが、白倉氏のこんな発言を放置しておいていいのか。超売れっ子脚本家であった伊上氏が、なぜかくも急に没落していったのか、その有り様を至近距離で見つめていた井上氏はその理由が誰よりも分かっているはずだし、そしてそれが自分の作風にも影響を及ぼしていることの自覚がないわけがない。「伊上勝の息子だから」などという期待を抱いて映画館に足を運ぶ人たちの期待に沿うことは自分にはできないし、沿ったりするような本を書いたりしたら大コケになるのが確実なことは分かっているはずだ。なぜそこで白倉氏の発言を咎めもせずニヤニヤしながら聞くだけだったのか。
ひょっとしたら、親孝行な井上氏のこと、どうせ今の東映に大した映画が作れる力量がないのは分かりきっているし、自分が脚本を書くことでわずかでも話題性が上がれば、今となってはほぼ忘れ去られた親父の名前に再びスポットライトが当たると思ったのかもしれない。
「七光」というのは普通子供が親の恩恵を受けることだが、その逆は何と言うのだろう?
水木しげるは本当に「反戦」と言わなかったのか(後編)
水木しげる『決戦レイテ湾 第六部 壮絶 特攻』
(承前)水木しげるの貸本劇画時代の戦記物からは、戦争の格好良さを感じる部分がなくもない。
などと言ったら確実に怒る人が出てくるだろうけど、しかし戦争の悲惨さと格好良さというのは本来なら表と裏の関係のはずだ。桜は散るから美しい。その後水木しげるは自らの従軍体験をもとにした作品を発表するようになり、そこでは悲惨さや愚かしさ一辺倒の描き方になっていく。
いったん戦争が始まれば、平時の常識は戦時の常識に取って代わられる。それは平時の感覚からしてみれば、おぞましく、しかし同時に魅力的なものでもある。そのような異世界の存在を垣間見たいという欲求をかなえてくれるものとして、サブカルチャーにおける戦争を扱った作品は存在していた。それが機能しなくなったのは、いつ頃からなのだろうか?
仮面ライダーやスーパー戦隊に代表されるヒーロー番組もまた同じ流れにあった。
『仮面ライダークウガ』を見て驚いたのは、そこでの人々の生活が、視聴者である我々の生活と何一つ違った所がないということである。人々は毎日会社や学校へ通い、警察はマニュアルに従って出動する。暴動が起きることもないし政府の内部で不穏な動きが出るということもない。わずかにポレポレで、最近は外出を控える人も減ったなあという会話が一度出たきり。
案外これがリアルなのかもしれない。正体不明の生命体が頻繁に出没し、何千何万という単位で人が殺さる事件が続いている、にもかかわらず人々は整然と平時と何も変わらない生活を営んでいる、というのは。
「異世界を覗き見るような興奮」を、かつての仮面ライダーシリーズが十分に描いていたとは思わない。とりあえずものすごく理不尽な運命を背負わされた主人公というのだけ出しておいて、あとは視聴者の想像に任せていた。しかしリアルさを求める風潮の高まりの前には、理不尽なものを理不尽なまま視聴者の前にポンと出すという手法も、単なる手抜きとしか受け取められなくなる。
最近のヒーロー番組は昔に比べて緊張感がなくてつまらない、という主張がある。敵は恐ろしくなく、それをやっつけるヒーローの活躍にも爽快感がない。原因として挙げられるのは、テレビ局の規制なのか自主規制なのかは知らないが、人が死んだり残酷なシーンを滅多に出せなくなったことである。しかし問題はそんなところにはないような気がする。
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