誰が千葉麗子を勘違いさせたのか

 千葉麗子(『恐竜戦隊ジュウレンジャー』1992年、プテラレンジャー=メイ役)がいかに勘違いした言動をさらそうが、それは自己責任というものであるし、別に同情する気もないが、勘違いさせた人間にも責任はあるのではないか。責任をとれとは言わないが(そんなことは不可能である)、責任を感じるぐらいのことはしてもいいだろう。
 『スーパーヒロイン画報』(1998年)を読み返していたら、こんなコラムが載っていた(無署名)。

ハードなアクションの間に微妙な感情表現を見せる必要のある、非現実的な特撮作品にあり、無垢な素材だった彼女は磨きを掛けられ、より多面的な輝きを発揮する様になる。
 なんじゃこりゃ?
 こういうのを読んでいると、つくづく女性タレントにとって顔は命なのだと思う。顔さえかわいければ、どんな大根でもダイヤモンドの原石ということにされる。もっとも賞味期限は長くない。顔の他に、演技力とか何でも一つは芸を持っていないと、あっというまに飽きられて消え去るのみ。千葉氏が1995年にまだ人気のあるうちにさっさと芸能界からの引退を決断したのは、やっぱり自覚があったからだろうか。
 それから二十年。もはや若いころの面影もなく、それでも昔はアイドルだったというだけの理由で、ろくに勉強もせずに社会運動の広告塔がつとまってしまった時、彼女の勘違いが始まったに違いない。自分は美人なのだから(実態は過去形なのだが)チヤホヤされるのが当然であり、チヤホヤされ方が足りないと思えば、もっとチヤホヤしてくれる居場所を求めてどこへだって行くだろう、右だろうが左だろうが。
 もっともチバレイに関しては、周囲の環境のせいでああなったのではなく、元から性格的にああいう人だったという話もある。ただ、戦隊OG(OBもか)で芸能界なんかとっくの昔に引退した人が、多少なりとも自惚れが入ったような言動を見せるたびにヒヤヒヤする。そしてブログなんか始めて、そのコメント欄に「×十年前と何一つ変わらぬ美しさ。感激しました」などと書いてる奴を見るたびに、「勘違いさせた場合の責任」について問いただしたくなる。もっとも自分が子供の頃に憧れの存在だったヒロインに対して、そういうことを書きたくなる気持ちは分かる。痛いほど分かる。しかしなあ……。
 難しい問題だ。

Comments

映画館で『ゴーカイジャーゴセイジャースーパー戦隊199ヒーロー大決戦』を見ていてダイナピンクの萩原佐代子が出たとき隣に座っていた子連れの若いパパが「おばちゃんやん」とつぶやきました。
それは思わないでおこうと頑張って努力しようとしてたのに、さらっと言われてしまい冷めました。でもそれが普通の感覚であって、特撮ファンが暖かすぎるのしょうか。

  • 藤子・F・不二雄
  • 2016/09/18 5:44 PM

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