高寺成紀はなぜ戦隊を悪く言わないのか(前編)

 自分が心の底から好きなものを貶されて怒らないのなら、その人は本当のファンではない。
 高寺成紀氏が例によって宇宙刑事をディスるツイートをしているのだが、それに対して憤慨しているファンを見ない。

【ビバ怪】今思えば「宇宙刑事」シリーズのフォーマット主義に、円谷教徒であるが故に不信感を抱いていた自分からすると「ああいうやっつけ的な作品をルーティンで撮ってる大人は、他人に興味のない冷たい人達なんだ」と思い込んで、研修に臨んでいた気がします(2016年2月26日)
 ちなみにその後考えを改めたという話ではない。
 怒らない理由は想像がつく。この高寺氏の指摘は半分は当たっているからだ。そして半分は当たっているという事実を認めたくないから無視する以外にないのである。
 だいたい高寺氏にしろ、また宇宙刑事シリーズのファンにしろ、彼らの頭のなかにあるのは、極めて単純幼稚な図式である。
  革新=良いもの
  保守=悪いもの
 人間というのは元来保守的なものである。なにかやってうまく行けば、それに縛られ、新しいことにチャレンジすることに臆病になる。だから必要以上に「革新」へと急き立てる必要がある。しかしだからといって、革新的でさえあれば何でもかんでも良い作品、保守的なら何でもかんでも悪い作品というわけでもなかろう。温故知新。要はバランスである。
 『宇宙刑事ギャバン』(1982年)もどちらかと言えば保守的な作品である。斬新であったと言えるのは銀ピカのヒーローというデザインワークだけで、脚本や演出法にそれほど新しいものはない。だからダメな作品だというのが高寺氏であり、それに反駁するために、革新的な作品だとこじつけてでも言い張ろうとするのが宇宙刑事ファンである。そして間違っているのは両方である。
 そういう意味で不思議なのが、なぜ高寺氏は戦隊シリーズを悪く言わないのであろう。だいたい東映のプロデューサーの間には、仮面ライダーをスーパー戦隊より格上だとみなす風潮がある。ところが高寺氏にはそういう発言は見当たらない。1996年から1998年、三年連続して戦隊シリーズのチーフプロデューサーを務めたことがトラウマになっているのだろうか。『カーレンジャー』『メガレンジャー』『ギンガマン』、いずれも評判の良い作品である。そしてその評判の良さがほろ苦い体験になっていることは容易に想像がつく。(続く)

Go to top of page