女性の戦争協力と『電撃戦隊チェンジマン』

フェミニズムと戦争
 「戦争で犠牲になるのは、いつも女と子供ってわけか」
というのは『電撃戦隊チェンジマン』第27話「ゲーター親子の夢」の疾風翔のセリフである。1985年当時にあってはこのような女=犠牲者という、安直な図式が罷り通っていたんだなあ、と見ていて思ったが、よく考えたら今もあんまり変わらないのであった。
 たとえば日本において大東亜戦争についても、こういう言い方がよくされる。まあ確かに女性に選挙権はなかった。しかし、上は政府の諮問機関に就任した女性委員から、下は国防婦人会で活動した主婦まで、積極的にあの戦争に協力した女性たちがいた。現在の観点からそれを愚かしい判断だったと裁断するのは、後出しジャンケンというものだ。彼女たちは未曾有の国難に対して、女性である自分は一体何をすべきかと考えた上で、米英撃滅・聖戦完遂に協力しようと思ったのであるし、それを「犠牲者」の一言でくくるのは、何か男たちにだまされて無理矢理戦争に協力させられたような図式におさめてしまうことになる。女性にも自主性があることを認めようとしない、きわめて男性中心的な考えといえる。
 戦隊シリーズにおいても、ヒロインも単にレッドの指示に従って戦うだけの存在から脱却し、それが定着を始めてきた時期にこのセリフである。そういえば疾風には自分のことを「フェミニスト」と呼ぶセリフもあった。現在は死語だが、「女に甘い男」という意味で当時使われていた。それは、女性蔑視の裏返しでもあるということを、このエピソードは示そうとしていたのかもしれない。実際、疾風はこの回ひどい目にあうわけだから。
 ところで、大東亜戦争における女性の戦争協力については最近も研究が活発に行なわれてきたようで、好ましいことである。鈴木裕子『フェミニズムと戦争』もその一つなのだが、市川房枝等、なぜ女性たちは戦争に協力したのか?という問題設定で書かれているのが何か変である。そもそも戦争がなぜ起こるのかといえば、やっぱりそれだけ人を熱狂させるものがあるからだろう。男が熱狂するんであれば、女だって熱狂しておかしくない。どうも、女というのは命をはぐくみ慈しむ性なのであるから、戦争には反対するのが当然であり、反対しなかったということは、なにか原因があったに違いない……という思い込みがあるみたいだ。
 そういう「女とはこういうもの」という決めつけって、差別につながるんじゃないの?

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