パーマンをやることは義務なのか(その5=完結)

 (承前)インターネットをやっていると、最近のスーパー戦隊はダメだ、昔はよかった、と言っている人と、いやそんなことはない、今のほうが面白い、と言っている人との間で不毛な罵り合いが行なわれている場に容易に出くわす。「不毛」と書いたのは、両者とも議論の前提が共有されていないということが分かっておらず、自分にとっての常識を相手に押し付けているだけだからである。
 それは何かというと、「使命の重さ」の描き方、この一点に集約されるように思われる。
 大勢の人々の命のかかった戦いである。主人公たちは重圧を感じてしかるべきであり、それが最近の作品からは感じられない、という点については両者とも異論あるとは思われない。意見が別れるのは、昔に比べて脚本や演出や俳優の技量が落ちたためにそうなっているのか、それとも描く必要性が昔に比べてなくなったから描かれなくなっただけなのか、という点である。
 そもそもヒーロー番組の根底にあるのは「暴力」である。ヒーローが暴力をふるうのも、大勢の人々の命を救いたいという思いがあるからこそ正当化されうるのであって、それをないがしろにするということは、単に正義の名のもとに強いものが弱いものをやっつける快感を子どもたちに植えつけるだけの行為にすぎない。これはもっともな批判である。それに対して、だいたい子どもたちは使命の重責に苦しむヒーローを見たいとは思わない、という反論がある。実際、それは視聴率によって裏づけられている。
 つまりここには子供番組とはいかにあるべきか、という古くて新しい問題が横たわっている。「大人が子どもに見せたがるもの」か、それとも「子ども自身が見たがるもの」か、という。
 どっちが正しいかについて、容易に結論の出せる問題ではない。さしあたって必要なのは、意見の違いがある、ということを認識することである。不毛な議論をするよりは、実りのある議論をしたほうがよい。ただ、議論が起こるということ自体は、特撮ヒーロー番組がいかに人々から愛される存在であるかの証であるから、悪いことではない。いくつになっても、ヒーロー番組は心の故郷なのだ。同じ子ども向けの作品である、『ドラえもん』と比べてみると、そのことがより一層痛感できる(結局言いたかったのはそれかい)。

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