こんなので満足なのか――『シャリバンNEXT』感想

 「最近の若者はなってない。俺達が若い時はこうではなかった」
 などという不満を日々募らせているおっさんたちに、溜飲を下げさせる。Vシネマ『宇宙刑事シャリバン NEXT GENERATION』はそういう映画。
 伊賀電(初代)から日向快(二代目)へと、シャリバンの名が受け継がれる物語。快が電から学び、電もまた快から学び、二人とも成長していく、というのではない。一方的に快が電から学ぶだけの話である。そして「宇宙刑事とは何か」と迷っていた快は、一人前へと成長し、電に感謝して深々と頭を下げる。
 若い人に受けることは最初から全然考えていないのはいいとして、おっさんが見ても面白いのだろうか。快が得た「宇宙刑事とは何か」に対する答えというのは、まんま1980年代のヒーローの価値観なのである。それは当時であれば、わざわざ学習するまでもなく、ヒーローの誰もが自然に身につけていたものだ。努力して身につけようとする、もうその時点でシャリバンの名を受け継ぐ資格はないし、そんなもん受け継がなくていい。1980年代に子供時代を過ごし、ヒーローの活躍に胸をときめかせ、そして今おっさんになった人たちなら絶対に分かっているはずのことと思ったが。
 私は今のスーパー戦隊や仮面ライダーにも色々問題があることは承知している。しかし「不易流行」をめざして頑張っている、ということだけは事実である。戦隊やライダーが毎年戦っているリングに、宇宙刑事も上がってくるのかと思ったら、早々に降りてしまったようだ。
 それでもネット上の感想を見ていると、ファンも手放しで喜んでいるわけではなさそうだ。平成宇宙刑事として今後シリーズ展開するのであれば、このままVシネマで続けてほしい。そういう声が圧倒的である。
 渡洋史氏(伊賀電役の人)のブログを見たら、このVシネマがバカ売れして、劇場映画やテレビシリーズにつながることを期待するとか書いてある。分かっていないのは作り手の側だけのようだ。

なぜ「懐古厨」の反対語は存在しないのか

 「スーパー戦隊シリーズの時代区分」を書いていて「懐古厨」なんて言葉をつい使ってしまって(書き直したけど)、ふと疑問に思ったのだが、「懐古厨」の反対語って一体何だろう? 「新規厨」という言葉はあるらしいが、実際に使っているのを見たことがない。
 たとえば原発をめぐる議論なら、「安全厨」だの「危険厨」だのとそれぞれ相手を罵っていたりする。それに対して「嫌韓厨」という言葉はあるが、「親韓厨」などという言葉は滅多に使われることはない。「原作厨」はあるが「原作離れ厨」となると概念自体が存在しない。……などと考えていたら、だいたい事の本質が見えてきた。
 日本人にとって韓国とは「嫌い/嫌いではない」という問題なのである。「嫌い/好き」という問題ではない。韓国叩きを見てゲンナリする、という人は多いが、別に自分の好きな国が叩かれているからゲンナリしているわけではない。「原作にこだわる/原作にこだわらない」という対立はあるが、「原作から離れるべき」などという立場は存在しない。
 要するに、「昔は良かった」という人がおり、それに対して受け身で「いや、昔もそんなに良いことばかりではなかった」と反対する人はいる。しかし積極的に「今のほうが昔より良い」などと主張する人はほとんどいない。「懐古厨」という言葉は存在し、その反対語が存在しないという現状は、そういった風潮を反映したものである。
 これって実は相当恐ろしいことなのではあるまいか?
 「今の日本はどんどん悪くなっている」。この意見が本当に正しいかどうかについては、軽々しく結論を下せる問題ではない。肝心なことは、みんながそう思っているということである。未来に希望はないとみんなが思っていれば、当然社会から活力は失われ、本当に希望のない未来が到達する。高度経済成長期の日本では、「昔は良かった」なんて思っている人が、そんなにいたとは思えない。

 などということを考えていたら、映画『仮面ライダー大戦』のことを思い出した。昭和ライダーと平成ライダーとを戦わせ、どっちが勝つかをファン投票で決めるだなんて発表があった時の、ネット上のしらーっとした空気を思い出す。炎上商法にはもうウンザリ、というのもあったが、そもそも平成ライダーを昭和ライダーと対等の土俵に立たせるなんて、誰も望んではいなかっただろう。平成は昭和の恩恵を受けているけど、昭和は別に平成から何も受け取ってはいないんだよねえ(考えてみれば当たり前のことだが)。
 しかも票数の操作までしていたとか。もう、なんと言ったらいいのか……。

「仮面ライダー2014年問題」という予言の自己成就

仮面ライダー2014年問題

 『仮面ライダー鎧武』の年平均視聴率が5.2%という酷さだったので、東映の白倉伸一郎氏の慧眼を称える声がネット界隈に満ちている。なんか、白倉氏が2014年ごろに仮面ライダーシリーズが危機に陥ることを、ずっと以前から予測していたらしい。
 予測してたんなら対策しろよ。
 しかもその予測の根拠、なんかものすごく変。
 (1)仮面ライダーを子供の頃に見なかった人間が親になると、子供もまた仮面ライダーに興味を持ちにくい。その弊害が現れるのが2014年頃。
 (2)しかしそこを乗り切れば、『クウガ』を子供の頃に見ていた人間が親になり、子どもと一緒に見るようになる。それまで5年の辛抱。
 仮面ライダー第三期の最終作『BLACK RX』が終わったのが1989年。2014年といえば25年後になる。また『クウガ』は2000年の作品だから、2014+5年は19年後。
 つまり、人間というものは19歳になったら子供を作り始め、25歳になった途端にピタリと作るのをやめる、ということを前提にしていることになる。
 一体どこの国の話をしているのだ。
 普通こういう議論では、一世代は30年として計算するのが普通である。父子の年齢差はだいたい25〜35と見ておけばよい。つまり、仮面ライダーシリーズ第三期を子供の頃に見ていた男の子が親になり、その子供がライダー適齢期に入る、そういう子供たちが2014年から増えていくのである。いったいどこが「危機」なのか。
 おかしな点は他にもある。子供の頃にライダーを見ていなかった人間が親になると、その子供がライダーに興味を持ちにくくなるというが、戦隊やメタルヒーローをやっていただろう。ライダーの関係者というのは、とにかく戦隊やメタルを見下したがるが、オタク的気質のない一般人にとっては、みんな一緒である。

 「予言の自己成就」という言葉がある。さして根拠もなく「こうなるぞ」と言っていると、人々は無意識的にそれに影響を受けた行動をとってしまい、結果として本当に予言が実現してしまう現象のことである。地位の高い人の発言は、そのような事態を起こしやすい。だから発言は慎重になる。
 白倉伸一郎という人、取締役にまで出世して、いったい何をやってるの。

追記

『キョウリュウジャー』アンチ考

キョウリュウジャーアンチ
 2ちゃんねる特撮!板の獣電戦隊キョウリュウジャーアンチスレにおけるレス数を、週ごとに集計してみた。第20話以前と、第21話以降とではスレの雰囲気が全然別物になったと放映中から言わていたが、グラフにすると一層はっきりする。
 ついでに、同じ日付で戦隊を前期後期に分けて、視聴率の前期平均に対する後期平均の比もまた出してみた。
  シンケン 0.92
  ゴセイ 0.84
  ゴーカイ 0.84
  ゴーバス 0.95
  キョウリュウ 0.89
 こうしてみると、アンチスレの雰囲気がこれほどまでにガラリと変わったのに対して、視聴率の推移は完全に平年並みであることが分かる。
 2ちゃんねるでアンチスレというと、過疎っていればよく信者が特攻してきて勝ち誇ったりし、逆に伸びが著しければ失敗作の証拠とアンチが勢いづいたりする。これを見ると、そういうことに何の意味もないということが分かるであろう。
 私は『キョウリュウ』は最初の三話しか見ていない(春田純一氏が出たもんで)。あまりに出来の悪い回だったのでその時点で視聴を止めた。アンチスレに何かを書き込もうという気すら起きなかった。理由は、放映開始前に特撮雑誌に載った、スタッフのインタビューを読んでいたから。『キョウリュウ』にはどんな思いを込めて作るつもりだとか、それを見る子供たちに何を伝えたいとか、そういうことは一切なく、ただ玩具の売上のことしか気にしていなかった。こんな志の低い作品に対しては、いくらつまらないからといって文句を言う気にもなれない。アンチスレが過疎っていたのも、私と同じように感じた人が多かったからであろう。
 そういうわけで、第21話で何が起こったのか知らないのだが、アンチスレが急変したということは、作り手の側も改心したということに違いない。「『キョウリュウ』はこういう作品にしたい」という思いを込めて作品に向き合おうと、態度を改めたのだろうか。良いことである。つまらないと思った人から文句を言われる作品と、つまらないと思った人から何も言われない作品とでは、前者のほうが断然いい。
 まあ私は見る気はないけど。
(追記・2013年といえば2ちゃんねるに大規模規制があった。それを考慮に入れても大して傾向に変わりはない。変化が少し緩めになるだけ)

スーパー戦隊シリーズの視聴率

土井たか子と安倍内閣と戦隊の紅二点

 先月訃報に接した土井たか子氏については、私は「日本社会党をつぶした人」という記憶しかない。決断力も実行力もなく、政治家向きの人では全然なかった。女を党首にすればフレッシュなイメージを国民に与えて票が集まるだろうという、ただそれだけの理由で党首に担ぎ上げられた人である。実際に票は集まった。ただし、党首として指導力を発揮する機会を何一つ与えられることもなかった。今になって社民党の議員とか関係者が彼女を偉大な政治家だとか称えているのは、本心ではなく、たぶん後ろめたさゆえだろう。
 1989年の参議院選挙で社会党や連合の会が大勝、その新人の当選者の多くが女性であったことから、「マドンナ・ブーム」と呼ばれた。社会党を支持する学者とか評論家は当然熱狂したが、その中でも冷静に問題点を指摘する声はあった。「マドンナ」という言葉である。それこそ政治を男の視点からしか見ていない人間の発想であって、女性蔑視の単純な裏返しではないかと。それについて土井氏は何か言うのかと思っていたら、結局何も言わなかった。自分から積極的に「マドンナ」という言葉を使うわけでもなく、人に使うのを止めろと言うわけでもなく。その時点で、私はこの人ダメだと思った。そして私の予想通り、その女性議員たちは、別に何か実績を積むわけでもなく、次の選挙でことごとく落選することになった。
 当時の私はそれほど政治に関心のある学生ではなかったが、それでも先が読めたのは、戦隊シリーズを見ていたからである。1984年に戦隊シリーズで初めて女が二人になった時は、これで戦隊ヒロイン像に劇的な革新が起こるだろうという予感に興奮しながら見ていた。そしたら何も起こらなかった。あの時の拍子抜けした感情は今でもありありと思い出せる。まあ、『超電子バイオマン』には不幸なアクシデントもあったが。
 女性の力で政治を変えるとか言いながら、じゃあどういうふうに変えるのか、具体的なビジョンも何も持たず、ただ単に頭数だけ増やしたって何にもならない。そんなことは最初から分かっていたことだ。――などということを考えていたら、安倍内閣の女性閣僚二人の辞任のニュースが入ってきた。25年間、政界は何の進歩もしてこなかったらしい。

 戦隊シリーズを見ることは、結構役に立つのである。

ピンクはなぜ使われない

ピンク色の国旗
カナダ・ニューファウンドランド島の非公式三色旗とブラジル・エスピリトサント州の州旗

 「スーパー戦隊の色彩学」を書くためにいろいろ調べていくうちに驚いたのは、桃色というが意外に主要な色であるということ。原色の六色(白・黒・赤・青・黄・緑)に次いで主要な五色というのがあって、それが橙(赤と黄の中間色)・紫(赤と青)・灰(白と黒)・茶(赤と黄と黒)、そして桃(赤と青と白)。それでいて、なんでこんなに使われない色なんだろうか。
 たとえば赤は共産主義の色だし、緑はイスラムの色である。だからといって赤い服を着ているだけで共産主義者なわけではないし、好きな色は緑色ですなどと言っただけでイスラム教徒と勘違いされることもない。しかし男がピンクの小物を身につけていると変人扱いされる。ピンク=女というイメージの強さはいささか異常な感じがする。
 国旗に使われない。これは分かる。桃色は見る人をやさしく穏やかな気分にさせる。こんな色を国旗に使ったのでは、愛国心を高揚させることができない。地域の旗も、上記の二つくらいではないだろうか。政治運動で桃色をシンボルカラーにしているのもLGBT以外に思いつかない。フェミニズムがピンクなんか使うわけないし。千葉ロッテマリーンズのユニフォームは「戦う者の集団にふさわしくない」という理由で三年で変更になったが、黒と桃の組み合わせは、決して弱々しい印象はなかった。Jリーグではセレッソ大阪が使っていて何も問題はなし。
 現代の社会においては、自分さえ目立てばよいと誰もが考えている。桃色のような、自分が目立とうとしない色は使いでがないのだ、そんなのは女の役目だ、という考えに基づいている――などと言えば男社会を告発するフェミニストみたいだ。しかしそれだと女の色は白になりそうなものだが。桃色は、自分を殺して他人を目立たせるのではなく、自分も目立ち他人をも目立たせる色なんだし。
 競馬や競輪では、8番が桃色である。天候や時刻に左右されない、視認性に優れた色を選んだ結果として順当に選ばれたのだが、初心者からは「なんでピンクなんか使ってんの?」という感想が来るらしい。
 不可解さという点では筆頭に来るのが電子部品のカラーコード。0黒・1茶・2赤・3橙・4黄・5緑・6青・7紫・8灰・9白・-1金・-2銀。なんでそこまで桃を避けるのかなあ。
 とにかく謎が多い。

 そういえばプリキュアとかでも、赤だから自己主張が強い性格とか、そういうキャラ付けしてるんだろうか。見てないから知らないんだけど。

急につまらなくなった山本直樹『レッド』

新宿クリスマスツリー爆弾事件
『レッド』7巻219ページ

 1971年12月24日に起きた新宿クリスマスツリー爆弾事件。警視庁のサイトによれば「警察官2人と通行人10人が負傷」とある。死亡者なんか出てないのである。『レッド』はフィクションであるから、現実と少し変えている部分はある。しかし意味なく変えたりはしない。多分間違った資料を参照してしまったのだろう。どうも7巻の真ん中あたりから、急に作者にやる気がなくなったような気がしてならない。
 連合赤軍を描いた作品は数多くあるが、『レッド』が最高峰だと今でも私は思う。連合赤軍事件が、四十年以上も昔の事件であるというのに、いまだに高い人気を持ち続けているのはなぜか。「世の中をよくしたい」という純粋な善意から始まったはずの運動が、かくも悲惨で愚かな結末を引き起こしたという、その過程が人々の心を引きつけるからである。真面目で純粋で正義感の強い人達が、なぜこんな事件を起こしたのか? それに対しては、真面目で純粋で正義感が強いからこそ、こんな事件を起こしたのだ、と答えるのが定説になっていた。ところが山本氏の回答はそうではない。人間とはもともと愚かなものであり、愚かな人間が愚かな事件を起こしただけのことである。真面目で純粋で正義感が強いということは、人間の愚かしさを加速させるわけでもなければ減速させるわけでもない。それらはこの事件の本質ではない。それが『レッド』の描き方である。
 事件の全貌が明らかにされたわけではない。「なぜ」(WHY)が解き明かされてしまっても、「どうやって」(HOW)が残っているだろうと。しかしこれはもはや単なるありふれた猟奇殺人事件でしかない。山本氏の熱が冷めたところで、とがめることはできない。読者にとってもこれ以上読み続けても、1970年前後の「叛乱の時代」から学ぶことは何もないし、2010年代を生きる現在の我々にとって、教訓が得られるわけでもない。単に知的好奇心を満足させるだけである。ここで連載を投げ出したところで、誰も文句は言わないと思うし、『レッド』が傑作であるという事実に変わりはない。
 続けるなら、脚本家の曽田博久氏と対談してほしい。それだけが心残り。

スーパー戦隊と天皇制

 「スーパー戦隊の第一作はなにか」を書きながら念頭にあったのは、今の天皇は何代目かということである(なんか随分と唐突な書き出しだが)。
 一応、125代目ということになっている。それ以外の答えが返ってくることは、まずない。北朝正統論に基づいて128代目だ、などと主張している人もいることはいるが、微々たるものである。
 変ではないか。
 日本の歴史上において、歴代天皇にカウントすべきかすべきでないかの境界線上にいる人間はたくさんいる。もし本当に皇室に対して思慕と敬愛の情を持っている人間であれば、当然その一人一人について自分の頭で考えた意見を持っているであろうし、今の天皇が何代目かという問題についても、百人いれば百通りの解釈が存在するはずである。俺は今の天皇は108代目だと思うとか、いや113代目だ、いやもっと少ないとか多いとかいう議論が国民の間で活発に交わされていないとおかしい。
 しかし現実にはみんな125代目だと言う。その根拠は、学校でそう教えられたからとか、宮内庁がそう言っているからとかだろう。ということは、結局みんな天皇なんかどうでもいいと思っているのである。「今の天皇は何代目か言ってみろ」と人に言い、相手が即答できなければ非国民となじるような連中が現実にいるらしい。ああいう奴らこそが、心の底では天皇を最も馬鹿にしているのである。多分、戦前に南北朝正閏論で内閣がぐらつくような騒ぎがあったということも知るまい。

 私自身としては、『烈車戦隊トッキュウジャー』は第38代目のスーパー戦隊だという意見に妥当性を見るが、「第36代目だという意見もある」と今後も断固として言い続けなければならないと思っている。どちらか一方に統一せよなどという動きが出てきた時こそ、スーパー戦隊シリーズがその生命を失うときである。

小泉あきらが決して店の名前を明かさないわけ

 『電子戦隊デンジマン』でデンジピンク・桃井あきら役をやった小泉あきら(現・弓あきら)氏は、現在もモデルとして活動しながら飲食店を経営しているというのはファンの間では知られた事実であるが、その店に行ってみたいというファンの思いに背を向けて、彼女が決して店の名前も場所も明らかにしないのは、ちゃんとした理由がある。2010年に二人のファンが彼女の店に行き、なにやら非常識な振る舞いをしたという事があったのである。
 もともと店の名前は明らかにしていなかった。彼女の知人が自分のブログにそれを書いてしまい、その数日後に大激怒のエントリが上がった。そういった経緯を知らない人も多くなったようなので、ここに書き残しておこうと思った次第です。
 現役の芸能人は、ファンに対して常に愛想よくする義務がある。ファンがお金を出すおかげで活動が成り立っているからである。たとえ内心では「この人なんか臭いわ」と思っていてもおくびにも出さず、笑顔で「応援してくれてありがとう」と言いながら握手をする。それが交換経済というものである。引退した芸能人はそうではない。ファンを選ぶ権利がある。だからファンの方から、相手に気に入られるように努力する必要が生じる。そのことが分からず、引退したアイドルに対して依然としてお客様気分でサインを求めたり写真を撮ったりしようとする人間がいるらしい。別に金も払ってないのに。
 そういえば先日、私が大川めぐみさんに会いに行くと書いただけでストーカー呼ばわりされるということがあったが、結局それも同じ種類の人間なのだろう。金さえ出せば人の心は買えると思っている人間にとっては、相手が金を要求してこなければ、その人と人間関係を築くことが一切できなくなってしまうのか。なんというか気の毒な人たちではある。
 小泉氏にしても、雑誌のインタビューに応じて『デンジマン』当時の思い出を懐かしく語ったりしたことがある。決して黒歴史にしているわけではない。にもかかわらず、ファンからの無制限な要求に応じないというだけで「彼女にとっては『デンジマン』のことは思い出したくもない辛い過去に違いない」などと噂を立てられたりする。
 引退した芸能人とファンとの関係というのは、なんでこんなに面倒くさいのか。もっとも、まごころとまごころの触れ合いを求める人間にとっては、別に迷うことなど何一つないんだけど。

戦隊シリーズと流行の後追いと羞恥心

新体操のマンガ

 毎年九月・十月ごろになると、来年の戦隊のモチーフは何だろうかという話題が人々の口の端に上るようになる。そして毎年のように「今は○○が流行っているから○○に違いない」などと言うやつが盛んに出てくる(今年は「妖怪」)。
 そういうの、みっともないとか恥ずかしいとかいう感覚は、もう昔のものなのだろうか。
 スーパー戦隊のプロデューサーを15年間つとめた鈴木武幸氏は常々、戦隊シリーズが流行の後を追うのではなく、流行が戦隊シリーズの後を追うのだと言っていた。『妖怪ウォッチ』が流行っているのは、それ自体が優れた作品だからである。妖怪自体の人気が高まっているわけではない。戦隊もそれに便乗して妖怪モチーフを、などという発想自体、なさけないと思わないのか。

 で、そういう人たちは、1982年の『大戦隊ゴーグルファイブ』もまた流行の後追いをしたと思いこんでいる。とんでもない話で、当時の新体操はオリンピック種目ですらなかったんだぞ。競技人口の推移の統計とかを持ってきて論理的な説得を試みたいが、なにしろ日本じゃ新体操というと体操競技の中の一部門みたいな扱いだから、正確な統計も入手するのが難しい。どうしたら分かってもらえるのか。
 思いついたのがマンガである。
 もし日本で新体操が人気があったなら、マンガに描かれたはずである。ネットで検索したところ、最も早い時期に描かれた新体操マンガは恐らく井上恵美子『キャンパスカルテット』(別冊少女コミック』掲載)であろう。体操から新体操へ転向したのは多分1982年の前半頃に当たるはず。
 単に新体操が出てくるだけであれば『タッチ』が有名。南が新体操をやり始めるのが1983年春。1984年にはロサンゼルス・オリンピックで新体操が初採用され、山崎浩子が八位入賞。以後、新体操マンガも多く描かれ、『光の伝説』(1985年、マーガレット)のようなヒット作も出るようになる。
 1982年『ゴーグルファイブ』の放映当時、私は新体操を知らなかったから、毎週オープニングに出る、桃園ミキのリボンの演技は、まるで妖精の舞いを見るかのようだった。これが流行の後追いだったら、神秘的な雰囲気を感じることもなかっただろう。あの頃の戦隊シリーズは、確かに流行の先を行っていた。

(2015年4月21日に大幅修正。赤石路代『サンシャインランナー』は新体操のマンガではありませんでした)

キレンジャーの交代は本当に円満だったのか?

畠山麦
朝日新聞1976年5月10日のテレビ欄「新番組の顔 畠山麦」

 『秘密戦隊ゴレンジャー』の初代キレンジャー・大岩大太を演じた畠山麦氏が途中で番組を降板したことについて、トラブル原因説はいまだ根強いものがある。
 いちおう舞台出演の仕事を優先させたから、ということになっている。当時の関係者もそう言っている(たとえば、だるま二郎氏のインタビュー)。
 じゃあ、その作品のタイトルは?
 どんなに探しても出てこないのである。それどころか、畠山氏が舞台に出演したという記録すらない。
 ま、単なる記憶違いということもある。本当はテレビか映画の仕事だったのかもしれない。だったら訂正しようという人がいても良さそうなものだ。そして記憶違いだったとして、そのテレビ番組のタイトルは?
 なんかもう疑ってくれと言ってるようなもんである。
 畠山氏は第67話で復帰するのだが、そしてそれって『ゴレンジャー』の殺陣が、大野剣友会からJACに変わったまさにその回である。その殺陣の交代自体、理由が明らかになっていない。そしてその直前はなぜかやたら休みが多い(7/17、7/24と連続休んだ後に8/14、8/21、8/28の三週連続休みなんてのまである)。
 この問題については私はこれ以上追究する気はないし、トラブル説・円満交代説のどちらに与そうとも思わない。ただ、氏が1976年に出演し、『ゴレンジャー』降板と時期がちょうど一致するテレビ番組を偶然見つけたので、お知らせしようと思った次第。氏の出演歴にも載ってないし、ウィキペディアにも項目がないマイナーな番組。人気絶頂の『ゴレンジャー』を降板してまで出演したかったような作品かと言われると、疑問は残る。

 いずれにせよ、二代目キレンジャー・熊野大五郎の殉職と、大岩大太の復帰は、結局「訓練なんかで得られたような力は、戦士としての真の力にはなりえなかった」というテーマを一層浮き彫りにし、結果的に作品にとってプラスになったと思います。

なぜ『仮面ライダー鎧武』の視聴率は低いのか

 断っておくが、私は『鎧武』は見たことがない。こういう人間が口出しをしていいものかとは思うが、まあ現在仮面ライダーシリーズが抱えている問題は、「スーパー戦隊シリーズの視聴率(改訂版)」で書いたこととほとんど変わらないし、他に真剣に考察している人もいないみたいなので、まあいいか。
 『鎧武』の視聴率が低い原因は、どう考えても十月開始のせいだろう。
 昨年までは九月開始であった。仮面ライダーにとって、クリスマス商戦の重要さは今さら言うまでもないし、年内にグッズは全部作中に出しておかなければならない。その期間が一ヶ月減った。そのためストーリーの盛り上げを二の次にして、とにかくキャラクターやアイテムを劇中にドカドカ出すことに専心しなくてはならなくなった。虚淵玄氏も確かそんなことをしゃべっていたはずである。だいたいこういうことは十月開始という発表がなされた時点であちこちの掲示板などでも危惧されていたことである。
 そしていったん離れた視聴者は、その後どれだけ面白くなったところで再びテレビをつけることはない。そういうものである。
 スーパー戦隊に比べて、仮面ライダーの方はまだしも新しいことにチャレンジしようという精神を持っている。そのためにわざわざ外部から特撮未経験の脚本家を招聘したのであろうが、その人の持ち味を存分に発揮させるための環境を整えるのであれば、販促計画を根本的なところから見直すか、それとも今年一年間は将来への投資と割りきって、売上が落ちても構わないと腹をくくるべきだった。なんでこんなちぐはぐなことになっているのか。
 というか、そもそもなんで十月開始にしたのだろうか? 視聴者の多くも疑問に思っているはずのことを、どうして特撮雑誌はプロデューサーにインタビューしに行かないのか。それが不思議である。

 販促に熱心なのはいい。今の東映特撮の問題は、販促だけが大事で、他のことはどうでもよくなっていることである。『鎧武』はその状況を打破するために送り出したのではなかったのか。その『鎧武』、玩具の売上だけは良いらしい。
 こんなことで本当にいいのか?

春田純一氏を弁護する

春田純一

春田「僕は二年やってきて思ったんですけれど、ただ敵を倒して喜んでいる様な、それだけのお話を果して子供にネ、見せていいのか、どうか。そういう戦争的な快感、がやりながら気になりましたね。子供に、こういう事を教えていいのかな?と。今、悪を倒すだけの番組しかないですからね」(春田純一・卯木浩二・渡洋史による鼎談からの発言、『宇宙船』1984年6月号)。
 ほほう。だったらなんでまた戦隊なんかに出たんですか? 『ゴーカイジャー』や『キョウリュウジャー』なんてそれこそ「悪を倒すだけの番組」じゃないの? 『ゴーグルファイブ』や『ダイナマン』みたいなジャリ番とは違って、それらって大人の鑑賞に堪える(笑)高尚な作品なんですか? ――という批判があるみたいなので、ま、弁護役を買って出ようと思った次第。別に頼まれたわけでもないんですが。
 こういう名言がある。バリエーションは色々あって、発言者も不詳。ただしチャーチルではないらしい。
青年になって進歩派にならぬものは心がない
青年を過ぎて保守派にならぬものは頭がない
 青年時代というのはとにかく理想主義者で正義感の強い人が多い。だがそれは現実の複雑さを知らず、物事を単純に考えた結果でしかない。そしてフィクションにおいては、善悪が複雑に絡み、一筋縄では解決できない作品を好む。どんなに複雑に絡んでいても、最後には正義が勝ち悪は滅びるという確信があるからである。
 ところが年をとると、現実というのは理想通りにはいかないことを肌身に感じて思い知る。善人が虐げられ、悪人がはびこるのは現実でさんざん経験しているので、フィクションでそんな話をあらためて読みたいとは思わないのである。
 若い頃は「故郷は地球」やら「怪獣使いと少年」みたいな話を好み、年取ってから単純な勧善懲悪の物語を好むようになる人は多い。というわけで、春田さんもまた普通の年のとり方をしていると思います。

 もしこのブログを読んでるあなたが若くないなら、まあなんとなく理解してもらえるとは思うが、若ければ、さっぱり分からないと思うかもしれない。それでいいのである。若い頃はそうでないと。

もういいでしょ、星光子さん……

 別に私は星光子ファンではない。しかし気になってずっと注目していた。『ウルトラマンA』の南夕子役を降板したことについて、自分から降りたと言ったり、降ろされたと言ったり、発言がコロコロ変わったことについても。
 そして2014年6月6日の『爆報! THE フライデー』に出演、そこでまた『A』について語るということがあったのだが、その数日前の星氏のブログにこのような記載がある。

 ゴールデンタイムのバラエティ番組なので、少し誇張した表現になっているかも知れませんが、番組サイドの制作上の狙いもありますのでご理解ください。
 これを読んだ時、もう心底ウンザリした気持ちになった。
 私はその番組は見ていないのだが、見た人によれば、星さんが涙ぐむ一幕もあり、違和感を覚えた人もいたらしい。要するに、カメラに向かって涙ぐんでくださいとディレクターに言われ、それに応じて演技をしたということか。女優であればお手のものというわけだ。
 星さんの発言の変転については、咎める人もいるようである。だがそもそも人間には記憶違いというものもあるし、過去の思い出にいまだ整理をつけられず、自分を繕ってしまうということもある。もしそれが事実と異なっていたとしても、それが彼女にとっての正直な心境であり、一種の真実であることに変わりはない。しかしそれが、テレビ的演出のために事実を曲げるとなると話は全然別である。もうこの人の発言には今後一切の信用を置くことはできない。たとえば毎日どんな心境で撮影所に通っていたかということをインタビューでしゃべったりしても、それは悲劇のヒロインを気取ろうとして、計算して行なった発言としか受け止められない。
 しかも、あれは演出ですよということまで自分のブログで明らかにするなんて、いったいこの人はなにがしたいのか。もう何がなんやら。
 よくよく考えると、『A』で南夕子の降板がなく、最後まで演り通していたらどうなっていたか? ウルトラヒロインのワンオブゼムにしかならなかっただろう。不本意な途中降板があったからこそ、かえって伝説になったようなものである。「夕子に会いたい」というファンの声に背を向けて、長らく姿を現すことがなかった星光子。その時期こそが、ファンにとって最も幸福な時期だったのだろうなと、今にして思う。

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