平成宇宙刑事とは何だったのか(前編)

 渡洋史氏は『宇宙刑事シャリバン』(1983年)でシャリバン・伊賀電を演った人であるが、『宇宙刑事シャリバン Next Generation』(2014年)にも出演し、その際に、ブログにこんなことを書いていた(2014年6月5日)。

そして今回ヒットになれば次回はまた劇場版やテレビシリーズに繋がるかもしれませんので、是非ともDVDをレンタルではなくお宝物として皆さんの手元に置いておいて頂けたら幸いです。
 で、その後何の新しい動きもないところを見ると、結局売れなかったのか。だったら報告ぐらいすればいいのに。目標とする売り上げはどれだけで、実際売れたのはどれだけか。それがファンに対する礼儀ではないかと思うが、まあどうせ売れるなんて最初から本気で考えていなかったんだろうけど。
 こういうのを見ると、宇宙刑事ファンには本当に同情する。
 冷静に考えれば、そんなに無茶苦茶売れるような内容でないことは最初から明らかだった。ただ、万一の可能性を前にすれば冷静さを失うからこそ「ファン」というのだし、彼らはここ十何年もの間ずっと、その手の生殺しの目にあわされ続けてきた。
 だいたい第一作である『宇宙刑事ギャバン』(1982年)からして、ヒットはヒットでも大ヒットではない。これをシリーズ化するにしても三年がせいぜいと思った当時の東映スタッフの判断は妥当なものだった。現状、東映特撮ヒーロー物としては仮面ライダーとスーパー戦隊の二大シリーズが盤石の地位を占め、それよりはるかに格下にキカイダーや変身忍者嵐があり、宇宙刑事を含むメタルヒーローがいるのもまたそこだ。ただ東映としてはライダーと戦隊だけというのは不安ではあるし、だから時々思い出したように宇宙刑事、あるいはメタルヒーローをプッシュする。そして口先では1980年代のヒーロー物の金字塔だとかなんとか麗々しく言葉を飾って持ち上げはするものの、内心では単なる補欠としか思っていないし、ちょっとやってうまくいかなければじゃあ次はキカイダーのリブートでもやるかという具合。
 糠喜びをさせられてはガッカリさせられるの繰り返し。ファンは本当に気の毒である。
 だから『スーパーヒーロー大戦Z』でも、宇宙刑事ファンが怒るのは当然ではあるが、だからといってそれ以外の人々に共感が広がるわけでもない。冷酷かつ無能な上司の役というのが、今の宇宙刑事ブランドの価値からしてみれば、相応の扱いというわけだ。(続く)

平成仮面ライダー、昭和に膝を屈する

 仮面ライダーシリーズ45周年記念の第一弾として今春公開される『仮面ライダー1号』については、例によって白倉伸一郎プロデューサーが、ファンの予想の斜め上を行く出来事を用意していますよと、ツイッターなどを通じて必死に煽ろうとしているが、さすがにファンの方でも学習能力があるわけで、今さら何をやろうが驚くようなことなど残っているものかと、冷笑的な雰囲気が漂っている――と思っていたら、その『仮面ライダー1号』のバレ情報を見て驚いた。
 平成ライダーの意義全否定か。
 なんと仮面ライダー1号というのは全仮面ライダーのリーダー的存在で、45年もの間ずっと悪の秘密組織と戦い続けてきたという設定らしい。その全仮面ライダーというのは当然平成ライダーも含まれていることであろう。
 世界征服を目指す悪の秘密組織などというものがリアリティを持っていた時代は終わった、これからは新しい時代にふさわしい新しい仮面ライダー像を、自分たち新しい世代が作っていくのだ、という意気込みのことに作られたのが平成仮面ライダーではなかったのか。そしてそれは人気を得て順調に作品を送り続けてきた。白倉氏は平成仮面ライダーは昭和よりもすぐれている、石ノ森章太郎が仮面ライダーに込めた思いを忠実に継承しているのはむしろ平成の方である、などという発言すら行なってきた(「仮面ライダーの敵」『朝日新聞』2013.4.12)。
 全部撤回するということでよろしいか。
 さすがにこれは予想の斜め上だ。
 一番立場を失うのは、『仮面ライダークウガ』のファンだな。
 『クウガ』が好きな人もそうでない人も、『クウガ』に対してはリスペクトを払わなければならないと思ってきた。仮面ライダーシリーズの新しい潮流を作ろうとしたパイオニアだからだ。しかしそんな試みなどなかったのだ、ということにするのであれば、もはや『クウガ』はシリーズのたくさんの作品の中の一つでしかなくなる。
 まあ『クウガ』は正直いって今見てあまり面白い作品ではないから、それはそれでいいか。それを言うのなら初代『仮面ライダー』だって今見てあまり面白いものではない、と言われるかもしれない。さすがに45年も前の作品であれば、テンポが今とは違いすぎる。にもかかわらず、初代のほうは永久に偉大な作品として語り継がれることだろう、仮面ライダーシリーズが続く限り。『クウガ』とは違って。

ヒーロー番組に残虐描写は必要か(後編)

 (承前)『仮面ライダークウガ』を通して見て、私の場合は未確認生命体に恐怖感や緊迫感を感じたのは前述の二話しかなかったのだが、その理由について色々考えていたら、あのテロップがよくなかったのではないか。「荒川区 11:28 p.m.」とか画面にしょっちゅう出てくる、あのやつ。
 あのテロップが画面に出てくるたひに、ああこれは東京の話なのだ、東京以外の人間にとっては関係のない話なのだ、と無意識に刷り込まれていたような気がする。
 現実の話、シリアやイラクでは毎日何百人という単位で人が殺されている。しかしそんなことは日本ではニュースにもならない。ところがそこに日本人が一人でも含まれていれば、上を下への大騒ぎだ。自分にとって何の接点もない人間が百人殺されることよりも、接点のある人間一人が殺されることのほうが激しい興奮を呼び起こす。いいとか悪いとかいう問題ではない、人間とはそういうものである。
 現実に起こっている殺害事件ですら赤の他人の興味を引くのは簡単なことではないのに、ましてやテレビドラマで殺されるのは架空の人物である。実在感を視聴者に対して感じさせるのは、口で言うのは簡単だが、要求される技術の難度は非常に高い。
 『クウガ』は一体何を考えてあんなテロップをいれたのだろう。
 日本国民は誰でも東京に興味を持つのが当たり前とか考えていたのだろうか。

 私とて決してテレビの表現規制の問題を軽く考えているわけではない。ただ問題にするからにはフェアな態度で取り組まねば説得力はない。たとえば鈴木美潮氏という人も、最近のヒーロー番組については不満を感じているらしくて、著書でもそのことに一章を割いている。しかし最近のヒーロー物がつまらないとしたら、それは外部的要因と内部的要因があるはずだし、外部的要因、つまりテレビの表現規制やスポンサーによる過剰な販促要求については饒舌に語っておきながら、内部的要因、つまりスタッフやキャストの技量や情熱が昔に比べて落ちている可能性については触れもしないというのでは、説得力も何もない。
 「昔は良かった」などというと、たちどころに「懐古厨」などとレッテル貼りをして意見を封殺しようなどという風潮もある中で、「現場の末端のスタッフは一生懸命頑張っているんだ、悪いのはテレビ局やスポンサーのお偉方の連中だ」という言い方は確かに受け入れられやすい。しかしそれはそれで狡いやり方ではないのか。

ヒーロー番組に残虐描写は必要か(前編)

 「最近の仮面ライダーは昔に比べて面白くない」と唱える人の根拠の一つとなっているのが、残虐描写に対する表現規制の問題である(鈴木美潮氏など)。
 人が殺される場面など滅多に出てこない。そのためにストーリーに迫力が生まれない。これはテレビ局の放送コードだけの問題ではなく、あまり怖くしすぎて子どもたちに避けられて視聴率が下がっては困るという自主規制も含む。
 にわかには賛成できない意見である。
 今のヒーロー番組が以前に比べて緊迫感を欠いているという点には同意するが、それは別に規制の問題ではなくて、他の理由、たとえば脚本家や監督の技量が落ちているために視聴者をハラハラさせるドラマを作ることができないのを、他に責任をなすりつけているだけのようにも思える。昭和時代のヒーロー物だって、それほど簡単に人が死んでいたわけではない。富士山を噴火させ日本列島を真っ二つにするなどという壮大な作戦を立てては正義のヒーローに阻止されるばかりで結果として人一人殺せない悪の組織であったとしても、それでサスペンスがなかったなどとは言わせない。
 この問題でよく引き合いに出されるのが『仮面ライダークウガ』(2000年)である。しかし、私は先日全話視聴したばかりなのだが、人がいっぱい死ぬからといって、それが作品の緊張感に結びついていたとは到底思えなかった。緊張感を最も味わったのは、第24話で桜子が襲われた時と、第27話でプールに行ってきたおやっさんたち一行が未確認とニアミスをした時である。どこの誰とも分からぬ人が百人殺されるよりも、レギュラーキャラが殺害現場の近くにいたという、ただそれだけのことのほうに見ていてヒヤリとさせられた。
 人が一人殺されたとする。その人にも生活があり、家族や友人、将来の夢といったものがあった。それを視聴者に対して実在感があるように描くのでなければ、死の重みも生まれてこないし、百の死体を出したところでストーリーに緊張感が増すわけでもない。むごたらしく殺された死体を出せば視聴者の気を引けると考えているとすれば、安直にもほどがある。

 ところで、ここまで書いたところで念のためにと調べてみたら、第24話も第27話もどっちも脚本が井上敏樹氏の回だった。別に私は熱烈なファンというわけでもないんだけど、それともメインライターが下手すぎなのか。(続く)

水木しげる「怠け者になれ」の真意

ポコポコ
怪奇漫画家「村木しげる」(水木しげる『ポコポコ』)

 水木しげる先生の訃報に接して一ヶ月以上になるが、この人の「幸せになりたかったら怠け者になりなさい」という発言、なんか随分と勘違いされて広まっているような気がする。
 そもそもこの人自体がものすごい勤勉家で努力家だ。奥さんの書いた『ゲゲゲの女房』にもそう書いてある。水木しげるという人は確実に、何十年に一度という非凡な才能の持ち主なのであって、そういう人であればこそ「怠け者になれ」という言葉が深遠な意味を持つのであり、我々凡人はやっぱりアクセクと働くしかない。
 マンガ家が不幸になる道は二つある。一つは売れないこと。もう一つは売れること。何か一つヒット作を飛ばしたら、たちまち各社の編集者が大量にやって来て、二番煎じ三番煎じの企画を押し付けてくる。そして睡眠や食事の時間も削ってひたすらペンを動かす毎日の到来。マンガ家を志した人であれば、誰もが自分の本当に描きたいテーマを持っているものだが、そんなものは忘れてただひたすら「売れるものを描け」という編集者の指図に従うのみ。そうやって金も名声も手に入れたはいいものの、無理がたたって早死にする、そういう人は多い。
 仕事断ればいいのに、と素人は思う。金のための仕事は仕事としてほどほどにこなし、それと並行して本当に自分の描きたいテーマをマイペースで描いていく、というやり方もあるだろう。しかしそうもいかないらしい。なぜならお金とか名声とかいうものは、ないならないで困るが、あったらあったでもっと欲しくなるものだからだ。
 水木氏にとって、『ゲゲゲの鬼太郎』がヒットし、それまでの極貧生活から脱出できた時、過度の競争主義に巻き込まれまいとすることが、いかに切実な意味を持っていたか。「怠け者になれ」という言葉の意味もその文脈で理解すべきものだ。
 しかし水木氏はなぜそんな生き方が可能だったのだろうか。多分、本当に自分の描きたいテーマを描き、その作品もやはりヒットしたからであろう。『鬼太郎』ほどではないにせよ、戦争体験モノも伝記モノも売れたし賞も獲得した。自分も満足できるし編集者だって『鬼太郎』の二番煎じを無理強いさせることはできない。
 逆に言うと、水木しげるほどの大天才でなければそのような生き方は不可能だということになる。
 私は最近の販促で雁字搦めになった仮面ライダーやスーパー戦隊の批判ばっかりしているが、別に販促を一切止めろと言っているわけではない。ただもうちょっと緩めるわけにはいかないのか。そしてその分、クリエイターにとっての本当に自分の作りたいものを作ってくれたら、もっとみんな幸せになれるんじゃないのか。そう思っていた。しかし水木しげるクラスの才能の持ち主にして初めてそういうことが可能ということであれば、今後も東映とバンダイの姿勢は永久に続くと考えておいたほうがいいのかもしれない。

『仮面ライダークウガ』は過去の作品である(その4=完結)

 (承前)『クウガ』の鈴木武幸プロデューサー(途中参加)は、後年インタビューでこのようなことを言っている。「こんなものは仮面ライダーではないと言われた時、『クウガ』の成功を確信した」と(ソースは失念)。
 当時の仮面ライダーシリーズは確かに先細りの袋小路にはまっていたし、シリーズを再び活性化させるためには、今までの流れを断ち切った、大胆な発想に基づいた新しい仮面ライダー像を作る必要があった。
 『クウガ』がその期待に応え、新しい時代の仮面ライダーのスタンダードを示すことのできた作品であったか、それとも単に目新しさが受けただけの作品だったのかは、歴史の審判に委ねられることになろう。
 新しいことに挑戦する。それが新鮮さゆえにヒット作になる。ここまではいい。その結果、柳の下のドジョウを狙った作品が次々と作られ、あっという間に鮮度が落ちる。それは仕方ない。その新鮮さを差し引かれて、なおどれだけの魅力がその作品に残るか。それが名作かそうでないかの分水嶺となる。十五年は判断を下すのに十分な時間であろう。
 東映としては『クウガ』をどういうふうに扱いたがっているのだろうか。最近の動きを見ると、昭和と平成の断続性を強調したいようにも見えるし、連続性を強調したいようにも見えて、よく分からない。前者であれば、『クウガ』を平成ライダーの原点としてプッシュしていくだろうし、後者であれば、単なるワンオブゼムにすぎなくなる。『クウガ』に限った話ではないが、商売上の都合で、とっくに寿命のつきた作品を「いつまでたっても色褪せない不朽の名作」などと作り手の側が持ち上げることなどよくある話だし、当然その逆もある。
 もっともそのような小細工、見抜くのもそんなに難しいことではないのだが。
 どんな作品でも、作られた時代の刻印を穿たれている。そして時間の経過に従って、評価も当然変わっていく。そして「今まであまり指摘されてこなかったが、この作品の魅力はこの点にある」という批評の言葉が時代の変化に従って常に新しく生み出されるようであれば、それこそ真の名作と呼ばれるに値する作品である。同じようなことばかり言われ続けるような作品は、もう寿命が尽きていると判断して差し支えない。

『仮面ライダークウガ』は過去の作品である(その3)

 (承前)映画『七人の侍』は、侍たちが村を去る場面で幕を閉じる。そこには、彼らに手を振って見送ったりする村人は一人もいない。
 田植えで忙しいからである。
 人々を守るために命がけで戦うヒーローに対して、人々が抱く感謝の念をあまりくどくどと描かない、というのはヒーロー物の伝統である。薄情に見えることさえある。しかしそれにはちゃんとした理由があるのだ。
 一般の人々にとっては、超越的な力の持ち主という点では、ヒーローも敵も同じなのである。自分たちとは異なる世界の住人なのだ。今はたまたま味方である者が、明日には敵に変わらないという保証はない。ヒーローに対して一般人は敬意や感謝の念と同時に、恐怖心もまた抱いている。ヒーロー番組にとってこのジレンマは昔からずっと議論され続けてきたものであって、たとえば『伊上勝評伝』という本にも井上敏樹氏が似たような内容の文章を寄せている。
 理不尽と言えば理不尽である。ヒーローにしてみれば、自分のことを心から信頼し尊敬してくれるわけでもない人々を守るために、命をかけて戦わねばならないのだから。敵を全滅させ人々が笑顔を取り戻した瞬間、自分は不要の存在へと転落する。そして、そんな日が一日でも早く来ることを願って、ヒーローたちは戦い続ける。
 だから、一般人から何の疑念も持たれることなく、心からの信頼を寄せられながら戦うヒーローも見てみたい、という欲求が出てくるのも当然のことであろう。それのみならず、武器を開発したり古代言語を解読したり健康診断をしてくれたり、ヒーローが大勢の人々の協力を得ながら戦うのであれば言うことなしだ。しかし、それを「リアル」と呼んでいいのであろうか。「第4号」がどんどん力をつけていくことに、他の人達は脅威を感じることはなかったのだろうか?
 正義のためにふるう暴力も、暴力の一種である。このテーマについて、昭和の仮面ライダーやスーパー戦隊が真剣に格闘してきたとは言いがたい。スポンサーやテレビ局がいい顔をしないからである。かといって、おろそかに扱ってきたわけでもない。深入りしない、というのも一つのやり方である。誠実な態度とも言える。深入りしたあげく安直な結末をつけるのに比べれば。(続く)

「スーパーヒーローイヤー」? なにそれ?

 白倉伸一郎センセイがまたなんかやらかしたらしい。(togetterまとめ)。
 『スター・ウォーズ』をdisったのが発端らしいのだが、氏の一連の発言の中で、私が気になったのはこのツイート。仮面ライダーシリーズの話らしいのだが

「原点回帰」「完全新生」等々、なぜ先達はいちいち過去との断絶を宣言する? …とか悩んでいた頃、初代からやってる某Pに呼びだされ、「お前、そんなのは『流派の違い』だ!」と一喝された想い出がありまして。
 この発言がほとんど問題になっていないのを見ると、白倉氏を叩いている人も、褒めそやしている人も、仮面ライダーシリーズの歴史についてよく分かっていないんじゃないかなあ、という気がする(もちろん白倉氏本人も)。
 仮面ライダーシリーズで「完全新生」なんて、ほとんど言ってなかったでしょ(『響鬼』くらい?)。それに比べて「原点回帰」、これはもう昭和の頃からしょっちゅう言ってた。
 昭和ライダーは、前作に比べて視聴率で上回る作品を、ただの一つも生まなかった。縮小再生産の袋小路にはまっていたのは明らかだった。石ノ森先生が死んで、過去と断絶することによってシリーズは息を吹き返したのであるし、それは平成ライダーの自慢していいところだ。もっともその後は断絶しすぎが逆に問題になっていくんだが。
 「某P」というのが誰を指すのか知らないが(見当はつくけど)、認識が間違っているとしか思えない。
 ちなみに戦隊シリーズの方はというと、「原点回帰」だの「完全新生」だの、そんな宣言聞いたことないでしょ。もともとこの二つのシリーズは歴史も違うしファンの意識の土壌も違う。「ニチアサ」などと同じ括りに入れられたのは、ごく最近の話だ。
 今年は「仮面ライダー45周年、スーパー戦隊40作目」のスーパーヒーローイヤーだそうだ。頼むからスーパー戦隊を巻き込まないでほしい。もともと戦隊シリーズにはアニバーサリーを大々的に祝う習慣はない。仮面ライダーとは違う。やりたいのなら仮面ライダーだけでやってくれ。
 もっとも、仮面ライダー45周年だけでは盛り上げる自信がないので、スーパー戦隊には名前だけでも貸してほしい、というのであれば協力してあげてもいい。去年の春映画がそうであったように。

『仮面ライダークウガ』は過去の作品である(その2)

 (承前)昭和の仮面ライダーシリーズでは、警察や自衛隊は出てこない。なぜなら、出てきても役に立たないからである。
 ショッカーにしろデストロンにしろ、その技術力は人間の科学をはるかに上回っている。その陰謀を阻止できるのは、やはり人間の科学を超越した力を持った仮面ライダーのみ。ということは、もし仮に警察が仮面ライダーの戦いに協力し、そしてそれが結構役に立ったりすることがあれば、その敵はショッカー等に比べてずっとグレードダウンしたものであるに違いない。
 実際『クウガ』の作中人物に、未確認生命体の出現によって人類の生存が脅かされている、などという認識を持っている人は皆無である。たとえば栃木県の住民には、「東京の方では物騒なことが起こっている」という程度の認識しかない。
 昭和時代の悪の組織は、口先では人類絶滅だの世界征服だの大きなことを言っている割には、東京で町内一つ占拠できない。やろうとするたびに、たちどころにライダーに阻止されてしまう。それを変といえば変ではある。その点『クウガ』の未確認たちは、もう最初から東京でチョコチョコと事件を起こすことを目的にしている。それをリアルというのであれば、確かにリアルではある。しかしそれは随分と後ろ向きな話ではないのか?
 『クウガ』の放映開始は2000年。忘れた人も多いだろうが、20世紀の人間にとって「21世紀」という言葉は、輝かしい理想の未来か、それとも破滅的な災厄か、どっちかというイメージだった。新世紀を迎えるまでに、何か劇的な変化が世の中に起こるに違いない、という漠然とした雰囲気が社会を覆っていた。結局何も起こらず、その反動として今度は、もはやこれからは劇的な社会変化なんて絶対に起こらないのではないか、かわりばえのない日常が永久に続くのではないか、という雰囲気が蔓延する。今まで人類の自由と平和を守るために戦ってきた仮面ライダーを、「人々の笑顔を守る」などというスケールの小さな戦いへと送り込んだスタッフは、自分たちが時代の最先端を行っているつもりだったに違いない。その後、貧困・格差問題の台頭、新冷戦の危機、原発事故。ドラスチックな社会変化は少し遅れてやってきた。「終わりなき日常」なんてもはや誰も言わない。
 『クウガ』は時代をつかんだつもりで、ババをつかまされたような気がする。(続く)

『仮面ライダークウガ』は過去の作品である(その1)

 去年の10月19日に書いたように、東映YouTubeで『仮面ライダークウガ』を見ていた。それが全話完了したのだけれども、なんか頭に浮かんでくるのは戸惑いの感情だけだ。
 わけがわからない。
 「みんなの笑顔を守る」? そんな理由で戦う正義のヒーローなんてあるのか?
 ナチスだって、ドイツに巣食う劣等民族どもを皆殺しにすれば、みんなが笑顔になれると信じて戦ったのだ。少なくとも主観的にはそうである。
 極論を言うなと言われそうだが、しかし、正義とは何か、ヒーローはなぜ戦うのか、というテーマは昭和の御代から連綿と続いてきた議論である。そして「みんなを守りたいから」というだけでは理由としては不十分であるというのは、とっくの昔に決着のついた議論ではなかったのか。ではその不足分を何で補うのか。簡単に答えの出せる問題ではない。だからこそ、ずっとヒーロー番組は暗中模索試行錯誤を続けてきたのだ。それを、いきなり時計の針を逆に回し、そしてそれが「革新的」な作品として評価されているって。
 なにがなんやら。
 「みんなの笑顔を守りたい」? 結構な話ではある。ではその「みんな」には誰が含まれ誰が含まれないのか、そしてそれを決めるのは誰か。その議論をすっとばしたら、単に「自分にとって大切な人みんな」の笑顔を守るため、それ以外の人たちをブチ殺しますというだけの話に過ぎなくなる。そこで話はナチスに戻る。
 ショッカーにしろデストロンにしろ、何か目的を持ち、それに従って行動しているということは、第一話の段階で視聴者の前に明らかにされていた。そしてそんな目的は許せないと思って仮面ライダーは戦っていた。その点、『クウガ』における「未確認生命体」たちは、一体どんな目的や信念を持っているかも、最後までよく分からなかった。五代雄介もまたそのことに大して関心を持っているようでもない。ただあいつらは、我々人類とは異なる存在であり、我々人類の生命と安全を脅かす敵なんだ、という決めつけがあるのみ。ひょっとしたら彼らは地球の先住民族であり、我々人類のほうが加害者なのかもしれない、などという発想は逆さに振っても出てこない。別にそんな話が見たいわけではないが、「私が『クウガ』を作る以前の東映は子供だましだった」なんていう大言壮語は、それくらいの作品を作ってから言え。(続く)

春田純一のインタビューは何故つまらないのか

戦隊40周年
別冊宝島『「スーパー戦隊」40周年!』

 さいきん春田純一氏のインタビューが雑誌に載ることが多いが、どうしていつもいつも同じような内容なのだろう?
 多分、ライターと編集者の質がよっぽど悪いに違いない。この本も、「谷隼人が日曜早朝から空中浮遊するインパクト」とか書いていたりする(戦隊が日曜早朝に移ったのは1997年、『光戦隊マスクマン』は1987年)。
 春田氏といえば「アクションがすごい人」という認識しか持っておらず、その線で記事を上げて一丁上がりとしか考えていなかったのであろう。仮に私がインタビュアーをやるのなら、第何話のあのシーンで黒田官平は何を考えていたのか、と聞きたいことは山ほどあるんだが。春田さんもこんなのに調子を合わせることもあるまいに、それとも春田さん自身、『ゴーグルファイブ』や『ダイナマン』のドラマ性やメッセージ性に対して大して思い入れがないのだろうか。もしそうなら仕方がない。
 スーパー戦隊は「一年たったら使い捨て」でずっとやってきたわけだし、それが戦隊の生命線だったというは私の持論でもある。
 しかし同じ記事で春田さんは「オファーがあればまた戦隊に出たい。今度は司令官役で出たい」とも言っている。しかし、この本の読者にとっては、春田純一といえば「アクションがすごいという以外に取り柄のない人」というイメージしか持たないであろうし、自分に対するそういうイメージを積極的に払拭したいと思っていない人が、今の若い戦隊ファンの人たちを前にして、一体どんな司令官役を演ろうというのだろうか。アクションを文字通り命がけでやっていた、往年のスーパー戦隊魂など、今の若い人たちにとっては骨董品としての価値しかない。なぜなら、今はCGというものがあるからである。
 そしてそれはオールドファンにとっても別に嬉しいものではない。2013年の『獣電戦隊キョウリュウジャー』では春田さんがグリーンの親父役で出るというので、あの時は私も第3話まで見てみた。あまりにも雑な話だったので視聴をそこで打ち切った。年がら年中オモチャの販促をやらざるをえない今の戦隊にとって、丁寧なストーリーなんか作る余裕などないのは瞭然であるし、そんなものに春田さんが出たところで、ファンにとっては見なきゃと思うようなものでもない。

スーパー戦隊魂など存在しない(後編)

(承前)

やっぱり戦隊って子どもたちが観る番組ですから、「こんなお兄さん、お姉さんになりたいな」と憧れてもらえるような存在を目指してほしいですね。そのためには表面的、外見的なことだけじゃなく、心構えというか、内面も磨いていくと、より子どもたちの心に響くような気がするんです。(『東映ヒーローMAX』vol.40(2012年3月)成嶋涼インタビュー)
 いかにも『ファイブマン』らしいなあ、と溜め息が出る。
 『ファイブマン』の特徴を一言で言えと言われたら、「ヒーローは無前提に子どもたちの模範であるべしと考えられていた時代の最後の作品」ということになろう。教師という設定は伊達ではないのである。翌年から、ヒーローに対して視聴者が抱く感情として「憧れ」よりも「共感」「親近感」が台頭してくるが、いずれにせよそういうのは昔の話だ。
 今の2010年代の戦隊にとって、子供たちが憧れを抱く対象はヒーローではなくて、ヒーローの手にするコレクションアイテムである。これをけしからんだの嘆かわしいだの言っても始まらない。今のヒーローには今のヒーローの事情があるのだ(少子化とか)。「昔は良かった」かどうかについては何も言えないが、「昔は今とは違った」のは確かである。
 さて成嶋氏である。
 多分、今の戦隊なんか見てないのであろう。
 『ゴーカイジャー』への出演依頼があった時、何を考えたのだろうか。子どもたちが憧れるようなヒロインを演じようと、自分は死に物狂いで頑張った、その血と汗と涙の結晶が、後輩の戦隊ヒロインたちにも脈々と受け継がれていると無邪気に信じたとしても無理もない話である。そしてインタビューで後輩に向かって何かエールをと言われ、別に先輩風を吹かせるつもりもなく、真っ正直に自分の思いを語ったのであろう。その結果として恥をかかされたとあっては、お気の毒としかいいようがない。宇都宮プロデューサー以下、先達の魂を受け継ぐ番組にする気など最初からなかったわけだが。
 さてその宇都宮ブロデューサーだが、次の40th記念作『動物戦隊ジュウオウジャー』を担当することに決まった。何をやるのか知らないが、どうも最近、戦隊OB・OGで、ブログやツイッターでなんか妙に自分の戦隊愛をアピールしている人達が急に増えたような気がして仕方がない。
 また見苦しい真似を演じなければいいのだが。

スーパー戦隊魂など存在しない(前編)

東映ヒーローMAX40

 ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』(1985年〜)は、高校の文化部を舞台にしたマンガだが、OBたちの登場が多い。高校を卒業して何年にもなり、普段は大学生か社会人をやっている人たちが、何か事が起これば部室にやって来て宴会を開いたり部の運営に口出しをしたりする。もちろんこれはマンガだからユーモアを交えてコミカルに描かれて入るのであって、現実にああいう人たちがいたら、ものすごくうざいことは言うまでもない。
 一緒に在校生として時を過ごしたことのある二学年以内ならともかく、それ以上学年が離れると、先輩たちの築き上げた伝統の上に、今の部があるんだ、などという実感はそうそう持てるものではない。しかし社会通念上、先輩は後輩よりも偉いということになっている。だから後輩は腹の中では「大した実績を部にもたらしたわけでもないのに偉そうに」と思いつつ先輩を敬ったふりをし、先輩は先輩で「せっかく我々の築き上げたものを、こいつらは全然受け継ぐ気はないんだな」と心の中で舌打ちをしつつ、大物らしい態度で後輩に接しなくてはならない。気まずいことこの上ない。
 スーパー戦隊シリーズにおいても似たようなものがある。
 『海賊戦隊ゴーカイジャー』(2011年)では戦隊OB・OGが大量に出演したわけなのだが、ただ出るだけでは済まないわけで、『東映ヒーローMAX』なんかのインタビューに引っ張りだされて「後輩に向けてエールを」なんて言われたりする。もともとスーパー戦隊シリーズなんてのは、「一年たったら使い捨て」をモットーにずーっとやってきたわけだし、そういうスタンスがシリーズに活力を与えてきたという面もある。しかし『ゴーカイジャー』という番組は一応スーパー戦隊魂が歴代の戦隊にずーっと継承されてきたという話だし、キャストやスタッフの魂もまた同様というタテマエだから、一応それなりのことをしゃべらなくてはならない。そして、別に先輩風を吹かせて偉そうにするわけでもなく、後輩の活躍を素直に応援すべく、当り障りのないことをしゃべる。しかしただそれだけのことが、読んでる方としてはものすごい赤面ものだったりするのである。
 『東映ヒーローMAX』vol.40(2012年3月)に掲載された、『地球戦隊ファイブマン』の星川レミ役をやった早瀬恵子(現・成嶋涼)氏のインタビュー記事もまたそれに該当する。(続く)

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