『スーパーヒーロー大戦GP』における戦隊の扱いは?

 今年3月21日公開の『スーパーヒーロー大戦GP』に戦隊が出ないことは、ほぼ確実と思われる。現在出ている予告映像や事前情報では、仮面ライダーの話だけ。戦隊ファンに劇場に来てもらおうという気があるとは全く思えない。たとえ出るにしても、おもちゃの販促のためにニンニンジャーがアイテムを使うプロセスを長々と写す程度のものであろう。
 この件に関してライダーファンは、やっぱり、恥ずかしいとか悔しいとか思っているんだろうか。
 仮面ライダーだけの映画を作りたいのであれば、『仮面ライダー大戦GP』という名前にすればよい。しかしそれでは予算もおりないのであろう。だから仮面ライダー以外のヒーローもたくさん出しますよという体裁だけとって企画を通さなくてはならなかった。ずいぶんと情けない話ではある。
 「スーパーヒーロータイム」などという呼称が提唱されたのは2003年。それ以来、戦隊もライダーも両方見ましょうという雰囲気を作るため、テレビ朝日も東映も必死になってきた。しかしそれまでは、戦隊とライダーのファンの間に特別な親近感など全くなかった。二つのシリーズは歩んできた歴史も全然違うしファンの気質も全然違う。それどころか、ライダーの関係者もファンも、ずっと戦隊のことを下に見るような発言ばかりしてきたではないか。こういうことは、言った方はすぐに忘れても、言われた方は覚えてたりするのだな。
 そして今でも、高寺成紀氏とか白倉伸一郎氏とか、戦隊ファンの目につかなさそうな所では、相も変わらず戦隊を見下すような発言を続けている。仮面ライダーシリーズは他の子供だましのヒーロー物とは違うんだ、改造人間の悲哀であるとか仲間殺しであるとか、高尚なテーマが盛り込まれているのだ、とかなんとか。このブログでもさんざん書いてきたことですが。
 そうやって、今まで自分たちが見下してきた「仮面ライダー以外のヒーロー」の力を借りて金を集めて映画を作る気分はどうですか?

「イスラム国」の現実感のなさ、特撮ヒーローの困難

 いったいこの現実感のなさはなんだろうか。
 「イスラム国」によって日本人二人が拘束されたという報道が流されたのが1月20日。それを受けて、その「イスラム国」から送られた画像をもとにコラージュ画像が大量に作成され、ツイッターを通じて世界中にばらまかれている、などということが海外のマスコミなどでも紹介されているらしい。「日本のシャルリー」たちは、日本人には脅しなど通用しないということをクソコラでテロリストどもに知らしめた、とかなんとか好意的に扱った所もあるそうだが、それは結果論であって、単に多くの日本人は、この事件に現実感を感じていない、それだけの話だ。
 これを「不謹慎」「平和ボケ」と批判して済むような話とも思えない。だいたい総理大臣にしてからが「テロには屈しない」と言ってみたり「人命第一」と言ってみたり。どっちなんだよ。口先だけは勇ましいが、具体的にどんな解決のイメージを持っているのか全然判然としないのは、政府を追及する野党やメディアも同じだ。もう日本は「イスラム国」から堂々と敵国認定されたわけで、「金だけ出す」などという従来のやり方を今後とも続けていけるとは思えない。事件が終わった後も、今後日本の外交はどうするのか。対米協調か独自外交か、決断を迫られているはずだ。それなのに、どいつもこいつも5800キロ離れた遠い外国の話というイメージしか持っていないように思える。いや、こんなこと書いてる私自身、頭で理解しているだけで、全然実感として感じることができていないから、偉そうなこと言う資格もないが。
 日本でずっと特撮ヒーロー番組が作られ続けてきたのは、正義と平和を愛する人々の気持ちをずっとすくい続けてきたからだ。「人類絶滅を企む悪の組織」も、冷戦時代の国際情勢の反映であるということは、さんざん書いてきた。冷戦が終わってからは、新しい時代に即した「正義と悪」を描こうという挑戦がずっとなされ続けてきたはずだった。今の戦隊物は、正義のためと一応口では言いながら、もうスポーツかゲームのような感覚でヒーローは敵と戦っているようにしか私には見えない――などと書いたら「懐古厨死ね」と言われるに決まっているから今まで控えていたのだが、もう構わんだろ。そういう時代だ。

東映の取締役は算数もできない

 「仮面ライダー2014年問題」とか「2014年危機」とか言われているが、それが計算間違いであるということについては、去年の10月26日のエントリで述べた。もっともこれは私自身が気づいたことではなく、ネットで前々から言われていたことであって、私はそれをまとめて整理しただけである。
 だから、当然こんなものはとっくの昔に東映の人の耳にも入っているだろうと思っていた。ところが、どうも入っていないらしい。最近『語ろう! 555・剣・響鬼』という本が出たが、そこで白倉伸一郎氏が相も変わらず2014年問題について述べ立てていた。
 これってかなりマズイ状況なのではあるまいか。
 人間は誰にも勘違いというものはある。だからそんなものは厳しく咎めるものではない。問題は、白倉氏が勘違いをし、「白倉さん、それ計算が間違ってますよ」と忠告してくれるような人が周囲に誰もいなかった、ということである。周りは全部イエスマンということか。そういう人が、今現在取締役で、東映特撮の指揮をとっている。
 白倉伸一郎という人にはファンも多いがアンチも多い。ネット上では「冷徹なビジネスマン」というイメージが横行している。会社に利益をもたらすためには何をすればいいのかを知り尽くしており、そのためにはファンの思い入れを踏みにじっても何とも思わない人、とかいうような。買いかぶりだと思う。たとえば『仮面ライダー大戦』の時なんて、今どき昭和ライダーと平成ライダーの対立をあおるとか、その勝敗をファン投票で決めるとか、なんかいかにも発想が安直で幼稚という気がする。本人は思いつきだけでしゃべっていることを、ファンは必要以上に持ち上げ、アンチは必要以上におびえ、周囲が勝手に盛り上げているだけに見える。そしてこんな簡単な計算違いにも気づかない。
 そんなことしているから松竹に興収で抜かれたんじゃないの。

内田樹先生、そんなにお金が好きですか

内田樹

東映、14年年間興行収入は116億円で31%減

 松竹(139億)にも逆転されたということで、さっそく特撮ファンの間からは喝采が上がっている。
 もちろん東映を憎んでいるのではない。今までのやり方ではダメだということに東映が気づき、心を入れかえることを願っているのである。
 まあそれも無理だと思うけど。

 内田樹という人がいる。この人の書くものは私も好きで、物の考え方をこの人から学んだこともあった。それが2005年くらいからあれよあれよという間に劣化が進行し、中身スカスカの本を大量に出しているというのが現状。最近の本は以前どこかで書いたことの使い回しばかり。対談本なんか特にひどい。このへんの事情は某映画会社とそっくりだから詳述しないが、深刻なのは、この人が資本主義の批判をしているということである。
 「金は不浄のもの」という教育が日本から失われたのは嘆かわしい、などと書いている人である。その当人が、資本主義のシステムに首までどっぷりと浸って身動きがとれなくなり、駄本の濫発をしているのである。
 どうも本人もその矛盾に気がついてはいるらしい。ツイッターでは定期的に、仕事を減らすぞ仕事を減らすぞというツイートが上がっている。にもかかわらず出版ペースは上がる一方。全力でペダルを踏み続けなければ倒れてしまう自転車みたいな状態。

 話を東映に戻す。世の中には映画なんか作るより、もっと楽してたくさん金をかせぐ仕事はいっぱいある。それをわざわざ東映というヤクザ会社に入社したということは、よっぽど映画が好きな人たちに違いない。彼らがその「いい映画を作りたい」という初心に立ち返れば、再び東映特撮は輝きを取り戻すはずだ。……などとファンが夢想するのも無理はない。東映の減収に喝采を叫んだのも、多分そういう人たちだろう。しかし、内田樹先生が駄本を大量に出しているのも、東映が仮面ライダーの映画を粗製乱造しているのも、大本になるのは資本主義というシステムである。そしてシステムに対しては、個人の「心構え」だとか「志」だとかが太刀打ちできるものでは全然ない。このことは認識しておく必要がある。
 まあ、仮に本当に東映が心を入れかえて、一作一作にじっくりと予算と時間を投入するという方針に転換したところで、粗製乱造が粗製寡造になるだけだろうけどね。

「手弁当」を美談に仕立てる『ゴーカイジャー』

 2011年の『海賊戦隊ゴーカイジャー』の第一話の撮影には二百人近い数のスーツアクターが必要だったわけだが、どうもあれは手弁当だったらしい。雑誌の名前は失念したが、放映開始直前にのインタビュー記事でそんな話が確か載っていた。
 東映という会社の倫理観が狂ってるのは天下周知の事実だから、今さら驚くことではないのだが、それをまるで美談であるかのように語る宇都宮プロデューサーの口調には、さすがに唖然とした。
 カツカツの状態で映画撮ってる貧乏会社が、それでもいい作品を作りたいと情熱を燃やし、その熱意にほだされてタダ働きを申し出る人間が次々に現れる。……美談というのはそういうのを言うのだ。年間何百億という金を動かしている大会社が、なんでアクターに一日一万円の日当が出せないんだよ。それって単なる「搾取」だろ。
 平山亨プロデューサーが著書に書いていたけど、東映では会社がいくら儲かっても、末端のスタッフにまではなかなかお金が行き渡らないらしい。そのような会社の体質を変えようとしなかったことを申し訳ないと悔いていたが、しかしあんただってスト破りしたでしょうが。ちなみにその時に作ったのが初代『仮面ライダー』というのは有名な話。
 まあそうやって、人を大切にしない、支出はできるだけ抑制するという方針のもとで作られただけあって、その『ゴーカイジャー』第一話のレジェンド大戦のショボイことショボイこと。あれを見て視聴者がどう思ったか、視聴率にはっきりと現れた。「第一話だけ高い」って、最も屈辱的なパターンでしょ。
 制作者サイドの人間が「いい作品を作りたい」ということよりも、「安く作りたい」ということに情熱を燃やすとして、それはある意味当たり前のことではある。不可解なのは、これを本当に美談として受け止めるファンがいるらしいということだ。ただの消費者でしかないファンが、なぜ経営者の立場に立って物事を考えるのか? それともお前ら東映の株でも持っているのか?

『ニンニンジャー』の無謀な挑戦

 ニンニンジャーのキャラクター設定が映画のパンフに載っていたらしくて、今年はまた随分と無茶なことをするようだ。

赤 兄貴肌だがその気持が空回りすることも。(これはいい)
青 キザなクールガイ。ただし意外とムキになりやすい。天然ボケな一面も
黄 何も考えていないように見えるが、実際は物事を冷静に観察している。
白 純粋かつ前向き。落ち込むときは激しく落ち込むという一面もある
桃 毒舌を放つ。その一方で、秘めた乙女チックな面も持ち合わせている。
 登場人物に二面性を持たせるのはセオリーだが、戦隊でそれをやるか。
 ドラマは葛藤から生まれる。だから一人の人間の中に矛盾する二つの面を盛り込むとよい。しかしそれは主人公が一人の場合だ。戦隊の場合は普通主人公は五人だから、それぞれが二面性を持つと、十人分の人間を描かなくてはならなくなる。そんなことできるの? 視聴者も混乱するだろう。
 さまざまに異なる性格を持ったメンバーが集まって一つのチームを作り、共通の目的のために戦う、この時点で葛藤は十分足りている。五人だけでも多すぎと言われているくらいだ。まあその分一人一人のキャラクターが薄っぺらくなることは避けられないが、別に文学作品を作っているわけではないし。熱血漢なら熱血漢として徹底という、フラットキャラクターであることは戦隊物にとっては欠点ではなく、むしろ強みである。
 もっともこんなことは、プロである脚本家やプロデューサーが分かっていないはずはないので、無謀を承知の上での挑戦であるに違いない。私も無難な作品よりも新しいチャレンジ魂を見せてくれるほうが好きなので、五人ともラウンドキャラクターとして描く意気込みがあるのなら、ぜひとも応援したいところだ。
 それにしてもモモは「毒舌」というキャラクターらしいが、『電撃戦隊チェンジマン』の渚さやかみたいなのを期待したいなあ。性格の悪さを魅力にした、戦隊史上でも稀なヒロインだった。まあそれも最初の頃だけで、クールさの中に秘められた優しさが、途中からどんどん表に出るに従って普通のヒロインになっていくんだが。面白味は減ったけど、それはそれで正統派の魅力はあった。そのおかげで割りを食ったのが麻衣。

スーパー戦隊と愛国心

 スーパー戦隊シリーズ全38作オープニング一挙見、などということをやったら、さぞや気分が昂揚するだろう、と思っていた。実際にやったら単に疲れただけであった。一時間以上かかったからなあ。まあそれはともかく、『大戦隊ゴーグルファイブ』の歌詞センスって、なんかすごく特異という感じがする。

 愛するくにを 守るために
 ゴーグルロボで発進だ
 「愛するくに」だよ。
 しかも「国」じゃなくて「くに」。ネーションじゃなくてパトリ。
 日本みたいな国に住んでいると、「愛国心」について語れと言われれば、右と左に分かれて「ファシスト」「非国民」などと幼稚に罵り合うことにしかならなかったりするんだが、しかもいい年こいた大学教授とか高名な評論家がそうだったりするんだが、でもそれって単にナショナリズムとパトリオティズムの区別がついてないだけだったりするんだが、1982年の段階で、子供向け番組の主題歌の歌詞でこの両概念を厳密に区別するような言葉遣いがなされていたということに、感動を通り越して、なんか凄みを感じる。
 翌々年の『超電子バイオマン』のエンディングになると、「愛する地球を守るため」。しかしこれを根なし草的コスモポリタニズムなどと批判するのは当たっていない。当時は冷戦下だったし、核戦争が起これば人類五十億人(当時)全部死ぬ、そう思えば、自分は何々国人であるまえに地球人なのだ、という意識も相当強かった。「愛する地球」という言葉にも、今よりずっとリアリティがあったのである。
 さて冷戦は1991年に終わった。核戦争も起こらなかった。「自分は地球人だ」などという意識も最近はほとんど感じることなどないと思う。そういうなかで相も変わらず十年一日のように「愛する星を守るため」などという歌詞が歌われ続けている戦隊シリーズであるが、ああいうのって今の若い人や子供たちに「ピンと来」たりするのかなあ、などと心配にになったり。

『非公認戦隊アキバレンジャー』の薄さ

 『非公認戦隊アキバレンジャー』は一期(2012年)は面白かったが二期(2013年)はつまらなかった、などと書くと「マニア向けのネタに走りすぎましたかね」などと擁護する奴が出てくる。冗談ではない。マニアほど二期にはガッカリしたのだ。
 たとえば第4話では「スマホモンガー」という敵怪人が現れるのだが、この左右非対称デザインは明らかに『デンジマン』のベーダー怪物のリスペクト。それがなんで「モンガー」という、『サンバルカン』の機械生命体の名前しているのか。なんかの伏線なのかと思ったら、単なる勘違いのようだ。
 第9話では『バイオマン』のパロディとして第46.5話「南の島を駆け抜けろ!」などというのが出てくるが、サブタイトルが八字縛りだったことも知らないのか。「走れ42195m」とかだったら笑えたんだが。
 第10話については「元ネタはゴーグルファイブ」でも触れたが、あの目玉が唯一の弱点だということを視聴者が知ったのは、番組終わって書籍が出てからだ。あれを見て「弱点が目立ち過ぎだー!」などとテレビを見ながら叫ぶなどということはありえない。それとも『冒険王』版と混同しているのか?
 全部検証していったら大変な分量になるので、パッと思いついただけ書いてみた。別に一期が濃かったわけではない。一期は一期で間違いも多かったが、話自体が面白かったので気にならなかった。まあ脚本家の荒川稔久氏は過去の歴代戦隊については全然詳しくないのではと前から薄々と思っていたから、それが確認された格好だ。そのくせなぜかウルトラのネタには妙に力を入れていたりする。なんですか、本当は円谷が好きなんだが、仕方なく東映で仕事しているという高寺成紀パターンですか。
 しかもこの人、『ゴーカイジャー』のメイン脚本家でもある。プロデューサーである宇都宮孝明氏もまた戦隊に全然詳しくない人だということは、このブログで前に書いた。歴代スーパー戦隊が史上初めて大集合するという記念作品で、プロデューサーと脚本家の両方とも、戦隊シリーズに愛着を持っていない人だというのはスゴイ人選だな。
 最近、東映YouTubeで『仮面ライダーディケイド』の第一話を見たんだけど、平成ライダー十作目の記念作ということで、クォリティはともかくとして、ワクワクするようなことをこれから始めるぜぇ、みたいな意気込みだけは感じた。『ゴーカイジャー』の第一話がいつもの場所でのいつものバトルだったこととは大違い。この二つ、視聴率面では完全に明暗分かれたというのも納得である。

『仮面ライダー鎧武』の自己破産宣告

 前回に引き続き『仮面ライダー鎧武』の公式読本の武部直美×虚淵玄の対談。

虚淵 まぁ、言ってしまえば「実験作」だと思うんですけど、こういったアプローチで1年やりきったということが大きいと思います。(中略)可能性を示したことで、少なくとも「平成ライダー」というシリーズに対する閉塞感のようなものは払拭できたんじゃないかと思っています。
 なにこの志の低さ。
 作家が自作について「これは実験作です」などと言うことは、自ら失敗作だと認めるに等しい。そんなの創作の世界では常識でしょ?
 要するにこの二人は、無難に60点を取りにいけば楽なのに、あえて新しいことに挑戦して100点か0点かという道を選びました、偉いでしょ、ということを言いたいらしい。そういうことは、100点をとって初めて胸を晴れることだ。実験してなおかつ成功した人は堂々と「成功作です」と言う。実験して失敗した人に限って「これは実験作です」という言い方をする。60点を狙って0点をとるのも、100点を狙って0点をとるのも、一緒のことだ。0点をとって「可能性を残した」もなにもあるか。
 この対談では他にも、小さな子供には残酷なものを見せたくないという教育方針の家庭がどうのこうの。そんなことは仮面ライダーシリーズが昔から格闘してきたことだろう。いったい何が新しいのか。自己弁護満載の対談なのだが、よく考えたら私は『鎧武』は一度も見たことないし、平成仮面ライダーに何の興味もない。今の仮面ライダーシリーズがこんな甘ったれた言い訳の通用する世界になっているんだったら、私のごとき部外者が容喙する必要もなかろう。
 ただ、武部氏は次の『手裏剣戦隊ニンニンジャー』のプロデューサーでもある。お願いですから、こういう気風は仮面ライダーだけにしておいて、戦隊に持ち込まないでくださいね。仮面ライダーでは何か新しいことに挑戦をしたというだけで評価されるのかもしれませんが(知らんけど)、戦隊の方では挑戦をして、なおかつそれを成功させて初めて評価されるのです。

「視聴率なんか気にしていない」という嘘

 『仮面ライダー鎧武』の公式読本で、プロデューサーの武部直美氏とメイン脚本家の虚淵玄氏の対談が載っていた。『鎧武』なんか一話も見たことのない私であるが、仮面ライダーシリーズって今こんなに志が低くなっているのかとビックリした。
 二点ほど触れる。その一つ。『鎧武』の人気について話が及んでいるのだが、話されているのは玩具の売上と、ファイナルステージの客の入りだけ。視聴率について触れないのは例年のことだが、なんと劇場映画の客の入りについても完全無視。ついに馬脚を現したか。
 人気の話をしているのに、ファイナルステージのほうが劇場映画より重要なんてことがあるわけないだろ。
 「視聴率なんか気にしていません」。ここ数年における東映特撮のプロデューサーの態度は一貫している。しかしそれは、録画機器の普及とか他にも色々理由があって視聴率が時代遅れの指標になったとか、そういうことではない。本当は気にしているのである。しかし体面が悪いから、気にしていないと言い張っているだけだ。
 だいたい、本当に視聴率を気にしていないということであれば、このツイートなんだ!

でじたろう「鎧武の視聴率が上がってきているようで一安心」2013年11月18日

吉田メタル「第25話”グリドン・ブラーボ最強タッグ” 視聴率がかなり良かったらしく プロデューサーから お礼を言われました!!」2014年4月17日

白倉伸一郎「昨日の『鎧武』キカイダー編、なんと鎧武史上最高視聴率だったとかなんとか。ご覧くださった方々に、心から感謝です」2014年5月19日
 視聴率が良くても悪くても何も発言しないのなら筋は通っている。しかしこの人達は、視聴率が良かった時だけはそれについて触れ、悪くなればダンマリである。これで「低視聴率は気にしていない」などと言ったところで誰が信用するか。
 2ちゃんねるの視聴率スレなんかでも、視聴率が低迷するとすぐに「視聴率なんかもう時代遅れの指標だ。玩具の売上がすべてだ」と擁護する信者が現れて、スレを荒らすのが通例だった(2013年度なんかは特にひどかった)。最近はそういうのも随分と少なくなったような気がする。

 ついでに現在放映中の『仮面ライダードライブ』。第一話だけは視聴率は高くて、その時の関係者のツイッター・ブログ。
片岡鶴太郎「『仮面ライダードライブ』御視聴有難う御座います。お陰様で3年振りの高視聴率でした。有難う御座います」(無意味な改行は削除した)2014年10月6日

長谷川圭一「ドライブ! 初回の視聴率も好調のようで超嬉しいです!」2014年10月6日
 その後『ドライブ』の視聴率は急落。当然のことながら、誰も触れなくなった。さて一年後、どういうことになっているのだろうか。(続く

戦隊シリーズにおける芸名と役名の一致

『バトルフィーバーJ』(1979年)
ダイアン・マーチン(ダイアン・マーチン)
 新しくスポンサーとなった後楽園ゆうえんちのプッシュがあったことは間違いない。ただし演技の方は全く期待されず、活躍の機会もほとんどなく半年で降板。ちなみに企画書での役名はペリー・マクブライド。

『電子戦隊デンジマン』(1980年)
小泉あきら(桃井あきら)
 竹本弘一監督の強力なプッシュで、当時モデルをしていた秋野昇の起用が決定、その時に芸名も決め、役名もそれに合わせたと思われる。ただし『デンジマン』終了と同時に役者も引退、モデルに戻る。企画書での役名はクリスタル。

『太陽戦隊サンバルカン』(1981年)
川崎龍介(大鷲龍介)/杉欣也(鮫島欣也)/小林朝夫(豹朝夫)/五代高之(飛羽高之)
 当時は男は姓かコードネームで呼ばれるのが普通であり、下の名前なんて劇中にはほとんど出てこない。多分適当に決めたと思われる。大鷲太郎・豹次郎・鮫島三郎の予定が、制作発表直前に変更。

『電撃戦隊チェンジマン』(1985年)
大石麻衣(翼麻衣)
 これは役名に芸名を合わせたケース。ヒロイン二人を演じる役者が西本浩子と大内弘子では紛らわしいということで、大内のほうが譲った(ただし西本のほうも「ひろ子」と表記変更)。

『超獣戦隊ライブマン』(1988年)
森恵(岬めぐみ)
 十作目(当時)記念作。戦士の数も三人と絞り込み、一人一人をじっくりと描く方針だった。慣例を破って既に名のある女優を起用したのもそのため。結局は年度途中で方針は変更、五人に増員される。

 そして2015年『手裏剣戦隊ニンニンジャー』では27年ぶりに山谷花純(百地霞)。こうやって過去のケースを並べてみると、よほど大きく期待されているんだろうなあという感じはする。ただその期待に答えられるかどうかは全然別の問題のようだ。

畠山麦はなぜ死んだのか

畠山麦 ズバット
『快傑ズバット』第29話「父母なき子 涙の復讐」(1977.8.31放映)

 畠山麦氏(『秘密戦隊ゴレンジャー』のキレンジャー・大岩大太を演じた役者)の自殺の原因ははっきりしていない。色々噂はあるが、その一つに「キレンジャーのイメージが強すぎて払拭できなかった」というのがある。
 意味がよく分からない。
 俳優が、自分にあまりにもピッタリのハマリ役に巡りあってしまったがために、イメージが狭まって却って仕事に恵まれなくなる、というケースは確かに存在するらしい。しかしそういうのは、寅さんとか金八レベルの話でしょ。たった二年の『秘密戦隊ゴレンジャー』でイメージが固まるも何もないもんだ。一体こんな噂の出処はどこか、と探していたら、マンガ家のすがやみつる氏のブログのようだ。
『仮面ライダー青春譜』第73回
 すがや氏には同情する。自分の親友がある日突然自殺したと知らされたら、キツイだろうなと思う。死ぬくらい悩んでいることがあるのなら、なぜ自分に相談してくれなかったのか。その結果、「あいつが死んだのは自分のせいではないか」という自責の念にさいなまされることによって死者との距離を縮めようとする心理が働く。自分が麦さんをキレンジャーに推薦したから良くなかったのだ。そして熱心なファンほどそういう気分に伝染しやすい。
 ただ、畠山氏が俳優として伸び悩んだのは、別に『ゴレンジャー』に出たからではなくて、やはり本人の問題だったと思う。この前まで東映YouTubeで『快傑ズバット』をやってて、テニスの陣太郎という役で畠山氏が出てきたが、ああいう演技をやっていては仕事が来なくなるのも無理ないと思った。畠山氏が登場した途端に、画面に明るく和やかな雰囲気が満ちてしまうのである。悪役がそれじゃあダメだろ。しかも「馬鹿も日曜祭日に休み休み言いたまえ」だの「早川! 隠れるのも日本一か!」とか言うことがいちいち面白い(アドリブだったらしい)。コメディリリーフとしてしか使えない、でもそれ一本でやっていけるほどでもなかった、ということなんだろうか。
 だいたい仕事で悩んでいたとも限らない。当事者以外があまり無責任な噂を流すものではない。

スーパー戦隊の最後の良心

 子供の興味が移るサイクルが速くなってきたので、昔は1番組1体だったロボが、今では3カ月ごとに新型が登場し3、4体に。その分おもちゃもたくさん出るが、今は一人っ子が多く、両親と祖父母の「6ポケット」がある時代だから。(ぼくらのヒーロー40年 敵待たせたって格好イイ 『朝日新聞』2015.1.1
 またこの話か!
 鈴木武幸専務がスーパー戦隊のことで取材を受けると、絶対にこの話をする。やっぱり自分でも後ろめたいことをやっているという気持ちがあるんだろうな。昔に比べて今の子供は飽きっぽくなっているということを必ず言うんだが、別にそんなデータがあるわけではない。変わったのは子供ではなく、子供をめぐる環境である。
 お腹の空いている人に食べ物を売る。これが商売の本来あるべき姿である。だから、食べ物が行き渡り飢えた人がいなくなれば、そこで商売はストップする。ところが資本主義の自走性は、そこで立ち止まることを許さない。君たちは本当はお腹いっぱいではない、もっと食べたいと思っているはずだとコマーシャルを使って消費者の欲望を刺激する方向に向かう。需要に応じて商売をするのではなく、需要を積極的に作り出す。専門用語で言う「高度消費社会」は、日本では八十年代に始まったと言われている。
 そしてその結果として現代人は、あれも欲しい、これも欲しいと常に欲望をかきたてられ、精神的に飢えた状況に追いやられる。日本人は物質的に豊かになった結果として、精神的にはかえって貧しくなったと言われるが、あれは別に老人の繰り言ではなくて、れっきとした経済学上の議論なのである。
 スーパー戦隊に出てくるロボの数もまたしかり。
 鈴木武幸氏といえば、スーパー戦隊シリーズのプロデューサーを十五年も連続して務めた人である。自分が手塩にかけて育てたシリーズが、子供たちを欲望漬けにするための道具のように言われていることは、この人の耳にも入っているのであろう。しかし既に管理職となった身としては、現場に口を出すわけにも行かない。
 ただこうやって反論をするということは、やはり鈴木氏としてもまだ戦隊シリーズについて愛着を持っていることの証拠なのだろうか。それが唯一の救いか。仮面ライダーのプロデューサーには、そんな人いないからな。

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