「戦隊」自体に商標権はあるのか(後編)

少年エスパー戦隊

(承前)スーパー戦隊シリーズは英語で Super Sentai Series という。戦隊の英訳は sentai である。squadron でも task force でもない。4月25日のエントリで書いたことであるが、「戦隊」は本来は軍事用語であって、「スーパーヒーローの集団」という意味で使うのは、原義から離れた新しい用法なのである。
 子ども向け小説やマンガで「戦隊」という言葉が使われるのは昔からあった。しかし松田博路『宇宙戦隊』(1957年)にしろ小沢さとる『海底戦隊』(1960年)にしろ、明らかに原義としての「戦隊」である。判断に苦しむのは『レインボー戦隊ロビン』(1966年)である。「戦隊」という単語をタイトルに使ってヒットしたと言える初めての作品であろうが、主人公のロビンが六体のロボットを従えて戦うというのは、これも現在我々が抱いている「戦隊」のイメージとの隔たりは大きい。なおこの直後、松本あきら(零士)『少年プラズマ戦隊』だとか貝塚ひろし『秘密戦隊ハリケーン』だとか望月三起也『ゼロ1戦隊』だとか、戦隊という語がついたマンガが続々と雑誌に発表されている。「二匹目のドジョウ」というやつに違いない。創作子どもSF全集の一冊として豊田有恒が書いた小説『少年エスパー戦隊』(1969年)、ヒット作と言えるのは多分これだけだろう。
 で1975年に『秘密戦隊ゴレンジャー』の直後には、1977年の『合身戦隊メカンダーロボ』『超人戦隊バラタック』(アニメ)、1978年の『恐竜戦隊コセイドン』(特撮)。この内一つでもヒット作が出ていれば、事情は今とは違ったものになっていただろうと思われる。
 で、結論だが、確かに「戦隊」という言葉は昔からある。しかし現在では原義とは離れた意味で使われている。新しい意味を付与し、またその普及に貢献したと言えるのはほぼ東映のスーパー戦隊シリーズだけ。である以上、「戦隊」という言葉の独占使用を主張するのは、商業道徳にもとるとは言えないんじゃなかろうか。
 仮にたとえば大日本帝国の航空戦隊を題材にとった映画を松竹とか東宝が制作し、グッズを作って売ったりしたらどうなるのだろうか。それで裁判になったりしたら? これはさすがに東映が負けるだろう。
 『少年エスパー戦隊』が今アニメ化になったりしたら、面白いことになりそうだ。どこかやりません?

「戦隊」自体に商標権はあるのか(前編)

海底戦隊・宇宙戦隊

 「戦隊」という言葉自体が商標登録されている、という事実を知った時はかなり驚いた。
 誰が登録したのか。ウィキペディアを見ると東映になっていたりバンダイになっていたりしてよく分からない。ローカルヒーローでは三人以上のグループものは当たり前に「○○戦隊△△」なんて名乗っているが、あれも細々とやっている限りにおいてお目こぼしをしてもらっているだけのことで、ちょっと派手な展開をして大きく注目を浴びたりすると潰されるらしい。小説やマンガの商業出版物のタイトルで「戦隊」が使われることもある。そういうのが人気が出てアニメなり実写なりで映像化されることになれば、多分タイトル名は変更させられるのであろう(そういうケースはまだないが)。
 こういうことは許されていいのであろうか?
 「戦隊」は造語ではない。昔からある言葉であり、大日本帝国の陸海軍でも使われていた。子ども向けのヒーロー物番組としては、1966年放映のアニメ『レインボー戦隊ロビン』が有名である。原作はスタジオ・ゼロ、つまり石森(石ノ森)章太郎がいたところであり、1975年に『秘密戦隊ゴレンジャー』という番組名を決めた際、「レインボー戦隊」のことが脳裏になかったわけがない。
 実際に法廷で白黒争うような事態になったらどうなるかは知らない。ただ、「戦隊」という言葉を使用する権利は事実上東映が一手に握っているという現状がある。そして戦後日本で「戦隊」という言葉がどのように使わてきたかの歴史を鑑みた際、決してそれを阿漕なやり口と言うことはできない。
 ここで「バイオマンとフラッシュマンに「戦隊」が付かない理由」と話がつながってくる。(続く)

バイオマンとフラッシュマンに「戦隊」が付かない理由

 「スーパー戦隊シリーズ」という名称が確立したのは、『太陽戦隊サンバルカン』(1981年)放映中である。それ以後番組名に「戦隊」の文字が付かなかったのは『超電子バイオマン』(1984年)と『超新星フラッシュマン』(1986年)の二作のみ。
 もちろんこれは、単にマンネリ防止のために変わったことをしてみただけと理解している人も多いだろう。では、その間にある『電撃戦隊チェンジマン』(1985年)には何故ついているのか。それがシリーズ初代の『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975年)と同じく軍人戦隊であるということを、偶然と片付けていいものかどうか。
 「戦隊」と言えば今では「スーパーヒーローの集団」みたいな意味が完全に定着しているが、本来これは軍事用語である。詳しい意味はウィキペディアでも見てください。スーパー戦隊シリーズの初期の作品は、すべて軍やそれに準ずる組織に所属しており、本来の用法にのっとった使い方といえる。『電子戦隊デンジマン』(1980年)は例外のようにも思えるが、これもデンジ星の亡命政権に所属する部隊という解釈が可能である。1982年には戦隊シリーズは新体制に移行し、軍隊的な規律とは完全に無縁なヒーロー物として『大戦隊ゴーグルファイブ』が生まれた。「果たしてこのまま『戦隊』という言葉を使い続けていいのだろうか?」という疑念がスタッフの間に生じた可能性はある。だったら思い切って外してしまえ。そして外した『バイオマン』も『フラッシュマン』も十分なヒット作になった。ここにおいて新スタッフは、今後はもう何の気兼ねもなく「戦隊」という言葉を使って番組を作っていくことに自信を持ったのではないか。
 「戦隊」という言葉に対するギリギリのこだわりが、シリーズに新しい活力を吹き込んだと言っても牽強付会には当たらないと思う。
 ひるがえって2012年、『特命戦隊ゴーバスターズ』ではタイトル名から「ジャー」を外した程度のことが騒がれた。もはや「戦隊」を外すことなど選択肢として存在し得ない。新しいことにチャレンジしようとしても、手枷足枷をはめられた状態とあっては、これで「最近の若い人達は気概がない」などと叩かれたりする、今の戦隊スタッフは本当にかわいそうだと思う。

 この話、「「戦隊」自体に商標権はあるのか」という話に続く。

幻のアンヌ隊員? 誰よそれ(再再)

C調アイドル大語解

 21日のエントリで「そもそも特撮ヒロインのファンなどという存在自体が、常軌を逸しているのである」などと書いた。これは1980年代の人間にとっては当たり前の感覚ではあるのだが(多分)、若い人にはもっと詳しく説明しないと意味が分からないかもしれない。

 『C調アイドル大語解』(初版1988年、翌年に改訂新版)という本をたまたま読んでいたら、大川めぐみ、萩原佐代子、森永奈緒美、森恵など特撮の人もちゃんと項目があった。ただしその十把一絡げにするような記述からは、当時は依然として普通の芸能アイドルとは別カテゴリーみたいな認識をされていたことが読み取れる。
 じゃあどんなカテゴリーだったのか? 多分「女優」だろう。歌手・俳優とアイドルの違いは、前者はあくまでも歌唱力とか演技力とかの芸を売り物にしているのに対して、後者の売り物はファンとの「疑似恋愛」である。音痴や大根であることが却ってファンの「ボクが応援してあげなければ」という気持ちを掻き立てて人気が出る、などという転倒した状況すら生まれる。中島らもが「新アイドル論」で詳しく論じていたので、興味のある人は読んでください(エッセイ集『空からぎろちん』に収録)。
 といっても疑似はあくまでも擬似である。本物の恋愛の場合は、相手は僕のことを好きでなかったらどうしようという悩みは深刻である。相手がアイドルの場合はそんな必要はない。この娘を応援しようと思ったら、相手はありがたく思うに決まっている。なぜならこっちは金を払っているからだ。
 特撮ヒロインがいまだアイドルという範疇になかった時代にあっては、ファンレターを出すということは、現実の知り合いの女の子にラブレターを出すのに匹敵するくらいの勇気が必要だったのである。ひし美ゆり子の人気が顕在化するまでに十年以上の歳月が必要だった、というのも多分そこに関係しているはずだ。ただし、その時に感じた気持ちの高ぶりもまた、現実の恋愛に匹敵するくらいのものだった。
 その壁を初めて突破したのが、大川めぐみということになるんだろうか。大川めぐみのファンに、その熱意が常軌を逸している人が多いというのも、それが理由である。
 今の若い人達にとっては、特撮ヒロインも普通にアイドルの一範疇なのだろうか?

幻のアンヌ隊員? 誰よそれ(再)

アンヌ隊員・イラスト
史上初の特撮ヒロイン本『スーパーギャルズコレクション』(1983年)。その表紙のイラスト、これ、誰?

 4月15日のエントリの補足。
 アンヌ隊員のファンというのか、ひし美ゆり子のファンというのか、どうも私には理解できない所がある。世代の壁というのか、あの人達は何故ああもマトモなのだろうか。
 マトモなのはいいことだろ、と言われるかもしれない。しかし、そもそも特撮ヒロインのファンなどという存在自体が、常軌を逸しているのである。子供が、テレビに出てきたきれいな女の人に小さな胸をときめかせたりする、そこまではよくある話として、しかしそんな思いを成人になってもずっと心に持ち続ける、それが常軌を逸していると言わずしてなんと言うのか。
 11日の神戸のイベントについて、ひし美氏がさっそく自分のブログで報告をしている。そこで「豊浦さまがアンヌ隊員をやられてたら、どんなウルトラセブンだったでしょうか」などとコメントをしている奴がいる。そんなもん、大失敗作になったに決まってるだろ。いや知らんけど。しかしファンならそう書くべきだ。そんなこと書いたら荒れるかもしれんが、それがどうしたというのか。むしろ荒れるべきだろう。
 実際、1968年に『セブン』をリアルタイムで見てアンヌ隊員を好きになった奴らというのは、別にファンレターを出すわけでもなく、何かファン活動に駆り立てられることもなかった、と聞いている。とてもマトモな人たちだ。そしてそのマトモさゆえに、アンヌ人気が形成されるまで十年以上の歳月を要したという。

 常軌といえば、2ちゃんねるの過去スレを漁っていたら、1984年ごろに新聞記事に大川めぐみが載ったことがあったらしくて、その出所を知りたくて当時の朝日・毎日・読売・日経・中日の縮刷版を全部調べた、なんてことを書いてる奴がいた。結局見つからなかったらしいが、それに対して「お前すごいな」などというレスがつくわけでもなく、淡々と続くレスのやりとり。お前らはお前らで常軌を逸しすぎじゃ。
 よろしい、産経は俺が調べてやる。

23日に補足

5/3追記 産経でもなかった。

素人小説『アニーの大冒険』(上原正三)を読む

女宇宙刑事アニーの大冒険
 私は懐古主義者ではないから「昔は良かった」なんて言わない。昔もそれほど良かったわけではないことを知っているからである。もっとも、「昔も良くなかった」と言ったところで、今の良くない状況が改善されるわけでもないのだが。

 『宇宙船』24号(1985年6月号)から29号(1986年4月号)に掲載された『女宇宙刑事アニーの大冒険』という小説を最近手に入れたら、あまりにもひどい出来にビックリした。だいたい脚本家の書いた小説は読みにくくて当たり前。サッカー選手がプレーする野球、あるいは中華料理のシェフが作ったフランス料理みたいなものだ。脚本を書く際の文章のリズムと小説を書く際の文章のリズムは全くの別物である。もっともテクニックは下手であっても、作品やキャラクターに対する激しい情熱のほとばしりが感じられ、それが読者の心を打つということはある。しかしこれは文章が下手であるのみならず、ストーリーもつまらない。もっとも上原正三氏がアニーというキャラクターに何の思い入れも持っていないことは、『宇宙刑事シャイダー』の本編を見た人にとっては自明のことではあるのだが。
 こんなものがよく商業誌に載ったものだと思うが、しかも私が読んだのは『宇宙刑事ギャバン・シャリバン・シャイダー トリロジーBOX』(2002年)に再録されたものである。その際に文章を手直しすることもなく、こんなものが残ったらプロの文筆家として恥ずかしいという感覚すら上原氏は持つことはなかったようだ。
 結局のところ、この小説も単に当時のアニーの人気に便乗しただけの企画であって、しかもその人気というのもアニーというキャラクターに対するものではなく、単にパンチラに対するものでしかなかったと、私は疑わざるをえないのである。

 収穫が全くなかったわけではない。鳥山劣(現・横井孝二)氏の挿し絵はかわいかった。宇宙スケバン刑事が活躍するのは第四話(嘘)。

幻のアンヌ隊員? 誰よそれ

ウルトラセブン幻のアンヌ隊員と再会

 ひし美ゆり子氏というのは『ウルトラセブン』(1967年)で友里アンヌ隊員役を演った人だが、そのトークイベントが4月11日に神戸で行なわれ、そこに豊浦美子氏が出席したらしい。豊浦氏というのは当初アンヌ役に内定していた女優のことである。ひし美氏が代役であったということは、ファンにとっては有名な話ではあるのだが(隊員服のサイズが合わなかった云々)、しかしこのニュースを聞いて、ひし美ファンというのは本当に訳の分からない人たちだと思った。
 豊浦氏の話なんか聞いて、一体何が嬉しいのだろうか。『セブン』とは何の関係もない話ではないか。
 当日は豊浦氏は「“こっちに出てれば”って思うことはありますね」などと発言したらしい。私が仮にひし美氏のファンで、そのイベントに出席していたら、「ふざけんな! 帰れ!」と叫んでいたことであろう。心の中で。
 友里アンヌというキャラクターが大きな成功を収めたのは、ひし美ゆり子が演じたからである。豊浦氏なんかが演じていたら、きっと大失敗になっていたに違いない(と思うのがファン心理ではないのか)。豊浦氏の「こっちに出てれば」などという発言には、「私が出てたとしても同じように(あるいはそれ以上に)アンヌ隊員は人気が出たはずだわ」などという思い上がりが潜んでいる。
 あるいはこれは豊浦氏の負け惜しみの発言なのであろうか。『セブン』を蹴って別の映画に出演するなどという愚かな決断をした豊浦氏を嘲笑うためにファンが集ったイベントだったのだろうか。しかし、豊浦氏の詳しい活動履歴は詳しくは知らないが、仕事がなくなって引退に追い込まれた、というのではないように思える。多分結婚退職だろう。女優という職業に大した執着も未練もなく、あっさり引退を決めた可能性は大きい。
 そして今は何不自由のない生活を送っていて、そんな人が過去を振り返って「こっちに出てれば」なんて言ったとしたら、それはそれで不愉快な話だ。

 こんなことを書いているのも、私が偏屈だからなのだろうか。しかし、『ウルトラセブン』は五十年近く昔の作品である。そんな昔にヒロインに恋い焦がれ、その思いをいまだに抱き続けている人であれば、偏屈でないほうがおかしくはないか。まあ私は『ウルトラセブン』はあまり面白いとは思わないし、その中でも比較的面白いと思ったのが第11話と第13話だったりするんだが。

21日23日に補足

小川輝晃氏と塩谷瞬氏に感謝を

 このブログは何かに対して怒ってばかりだが(ということを4月1日のエントリでも書いたところだが)、今回は久しぶりに心温まることを書く。
 4月12日の『手裏剣戦隊ニンニンジャー』にニンジャレッドとハリケンレッドが出演した(これについては4月6日のエントリにも書いた)。で東映公式サイト

若いキャストの演技の話になった時に小川〔輝晃〕さんが、
「もう少し、いつも近くにいて教えてあげられる役者がいるといいんだけど」
と言っていたのが印象的でした。
テレビ朝日公式サイトでは
<ハリケンレッド・椎名鷹介役 塩谷瞬コメント>今の現場はそんなに怒らないんですが、でもそれは彼らにとって残念なことなんじゃないかと思ったので、今回は僕から色々と言わせてもらいました。
 戦隊シリーズはだいたい主演の五人は新人もしくは準新人である。しかし司令官や悪の幹部にはベテランの俳優を配することが多い。若い彼らのお手本にするためである。小川氏もまたそうやって先輩から技を盗んだのであろう。それが最近はどうもうまく機能していない、という噂を聞いたことはあったが、本当だったとは。
 『ニンニンジャー』の放映開始からそろそろ二ヶ月になるが、演技が全然進歩していないことを先輩の俳優たちがこのように気にかけてくれているとは、ありがたいことである。佐藤健太氏とは大違いだ(だからそういうのやめろって)。
 よく考えたら戦隊OBにというのは、俳優という職業を志して初めてもらった大役が戦隊だ、という人がほとんどである。スーパー戦隊シリーズがピンチとなれば、その存続のために力になりたいという思いを抱いている人も多いはずだ。しかしその思いは有効に活用されぬまま、巨大なエネルギーが死蔵されたままになっているというのは何とも残念である。小川氏や塩谷氏のように、こうやって『ニンニンジャー』に出てくれるような人に対してすら、こんな糞みたいなストーリーの糞みたいな役を与えやがって。スタッフは申し訳ないとか恥ずかしいとか思わないのか……。
 このブログもいつもの調子が戻ってきたようだ。

仮面ライダーと原発(後編)

 (からの続き)仮面ライダーシリーズの原作者が石ノ森章太郎だというのは、単に名義上のことだということは、ファンであれば誰でも知っている(平成だけじゃなくて昭和も)。少なくともテレビ版では石ノ森氏はスタッフの一人でしかないし、その名を原作者に据えることに、何か深い考えが最初からあったとは思われない。しかし『仮面ライダー』が予想を超えた大ヒット作になることによって、妙な事情を抱え込むことになってしまった。
 『仮面ライダー』が東映時代劇の血を受け継いでいることは、しばしば指摘されている。大衆に一時的な慰安を与えることこそ使命であり、深いメッセージ性など不要。ただ平山亨プロデューサーを筆頭とするスタッフが、そのことを誇りに思っていたかというと、そういうわけでもない。世間では高尚な文芸作品に比べて大衆娯楽作品は劣るものと見なされていたし、それに対するコンプレックスはぬぐいがたく存在していた。だからこそ石ノ森章太郎という有名なマンガ家を原作者としてクレジットし、『仮面ライダー』が大ヒットしたのは改造人間の孤独であるとか正義と悪の同根性とか、深いテーマ性があったからこそなんだ、などというスタンスを対外的に取り繕う必要があったのである。実際は仮面ライダーって言われるほど孤独でもないんだが。そういった本音と建前の二重構造を打破しようという努力が平成ライダーのスタッフによって試みられもしたが、実を結んだとは言いがたい。結局は毎年新作が発表される度にスタッフ一同「石ノ森先生の遺志を継いで……」みたいな白々しい発言をするのが今でも慣例になっている。
 そしてそれは戦後の日本の歩みと奇妙に一致している。人命も美しい国土も伝統文化もすべて犠牲にし、金儲けだけが正義と国民一丸となって突っ走った結果が、戦後の奇跡的な経済成長であるというのは今さら指摘するまでもない。そしてその後ろめたさが、今さまざまな局面で日本社会に軋みを生じさせている。原発もその一つに過ぎないし、そして平山亨氏の原発に関する発言をその文脈に置いた時、その意味の深さも思い知れるであろう。

仮面ライダーと原発(前編)

東映ヒーロー名人列伝

 彼〔青柳誠、引用者注〕はエンジニアとして、原発は危険で、原発は無用だという一種の迷信に反発し、原発は現在の人間生活に必要なものであり、完璧な運営をすれば、絶対に安全なものなのだと言いたかったのだろう。実際今の日本の社会は原発の電力なしでは、経済復興も何もなりたたないのだ。それを考えずに闇雲に原発廃止を迫る人は百年前の飢餓と隣り合わせの生活を覚悟して言っているのだろうか。(平山亨『東映ヒーロー名人列伝』1999年、p.122)
 平山氏が特に愚かなわけではない。「3・11」以前にはよくいたのである。核物理学なんかまともに勉強したことがあるとも思えないのに、ただひたすら原発の絶対安全性を声高に叫ぶ人というのが。
 平山氏の著作を何冊か読んでみれば、この人が徹底的に無思想の人であることが容易に感じられる。理念や哲学を持たないことを、積極的に選択した人である。氏によれば、テレビ番組というものには二種類しかない。面白い番組と、つまらない番組と。そしてそれがプロデューサーとして、数々のヒット作を生み出す原動力にもなった。ただそういう、子供たちの心にいつまでも残るような深いメッセージ性など無用、今が楽しければよいのだ、というスタンスが通用したのは、当時が高度経済成長期だったからだとも言える。経済成長こそが正義だ、経済的に豊かになることが人々の心をも豊かにすることだという考えが何の疑いもなく横行していた時代である。現代ではもはや通用する手法ではない。冷戦が終わり、そもそも正義とは何かということ自体が非常に見えにくくなっている現在の日本において、もはや『仮面ライダー』(1971年)を見てそのストーリーから視聴者が感じ取れることなど何もない。
 「3・11」以後、経済成長イコール正義という主張も以前ほど威勢は良くなく、かといってそれに取って代わる新しい理念が台頭してきているわけでもない。大多数の国民は、今後の日本のエネルギー政策がどうあるべきかについて真剣に考えようともせず、原発から目をそらそうとしているように思える。そしてそれは今の混迷の続く仮面ライダーシリーズの状況と奇妙な類似が見られる。(続く

誰が戦隊忍者の客演を喜ぶのか

 子供を盾に言い訳するのは、子供番組を放送するテレビ局としては最も低劣な行為ではあるまいか。
 4月12日の『手裏剣戦隊ニンニンジャー』に、忍者戦隊カクレンジャーのレッドと忍風戦隊ハリケンジャーのレッドが出る。このこと自体は別に咎めることではない。咎めるのは、1月24日の『ニンニンジャー』制作発表会見における、テレビ朝日の井上千尋プロデューサーの発言である。(引用文中5日となっているが、もともとこれは『秘密戦隊ゴレンジャー』の第一話が放映されてから丁度40年後になる日であり、その記念として行われる予定のものであった。放映日程が一週間ずれたのは周知の通り。)

さらに、4月5日(日)に戦隊シリーズが40周年を迎えるにあたり、「サプライズを用意しています。子どもたちも、オールドファンも胸が熱くなるような、あの人たちが登場しますので、ぜひご期待いただきたい」と語っていた。
 子供がそんなもん見て胸を熱くするわけないだろう!
 『海賊戦隊ゴーカイジャー』で戦隊OBを大量に出して視聴率を前年より0.5ポイント下げたことをもう忘れたのか。
 戦隊のメインターゲットは未就学児(プラスせいぜい小学校低学年)である。通常は三年で視聴者は総入れ替えになる。昔の戦隊なんか知るものか。オールドファンでも関心を持つのはその2戦隊のファンくらいのもので、あとの36戦隊のファンにとってはどうでもいい話だ。
 一体誰が喜ぶのか? たぶん玩具のコレクターが喜ぶ。レジェンド獣電池とか、レジェンドレッシャーとか、どのくらいのセールスを記録しているのかは知らんが、まあこれからもレジェンド商法のために、歴代戦隊の存在を視聴者に意識させるような番組作りを今後も続けるつもりなのであろう。大きな財布を持っているオタクどもに媚び、肝心の子供をないがしろにする番組作りをしていることに対する後ろめたさはテレビ朝日の人たちにも共有されていると見える。だからこうやって言い訳をしているのか。
 カクレンジャー(またはハリケンジャー)のファンで素直に楽しみにしているという人たちもいるかもしれない。それはそれで構わないが、もし仮にニンニンジャーの噛ませの役をやらされても怒るなよ。
4/13の追記

なぜ庵野秀明は言い訳ばかりするのか

 このブログでは高寺成紀氏や白倉伸一郎氏を何度も何度も槍玉に挙げてきたが、それも彼らに対する最低限の信頼があるからこそである。何の信頼も抱いていない人を批判したりはしない。
 この人達は言い訳をしない。多分、していないと思う。
 それは恐らく、特撮ヒーロー番組のメインターゲットがなんやかんや言っても子供たちだ、というところから来ている。子供は面白いものには食いつく、つまらないものにはそっぽを向く。このつまらなさにはどのような深い意味が隠されているのだろう、などということをいちいち考えたりはしない。そんなものを考えるのはオタクだけだ。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』及びゴジラ新作映画に関する庵野秀明のコメント
 『ヱヴァ』は見てないし見る気もないし、「ヱヴァが完結しない理由(わけ)」というエントリで書いた以上のことにを書くつもりはなかったのたが、1996年の『新世紀エヴァンゲリオン』のブームを体験した人間として、あと一言だけ。
 あの時は、宮崎駿は引退を宣言していたし(後に撤回)、その後の日本のアニメ界をリードしていくのは間違いなく庵野秀明であろう、と誰もが口を揃えていた。『エヴァ』のブームは終わったが、これからも次から次へとヒット作を連発していくことをみんな期待していた。
 それが、まさかこんなことになるとはねぇ。
 人間なら誰でも自分の力量を越えた仕事を間違って引き受けてしまうことはある。だったらさっさと謝って、手を引けばいい。この人はいつもいつも言い訳ばかりだ。
 意味のないものを、いかにも意味がありそうに見せかける。二十年前にそうやって『エヴァ』を大ヒットさせた手腕は確かに見事だった。そして今庵野氏は自分を使ってそれをやっている。『ヱヴァ』がいつまでたっても完結しないのは、自分の才能が枯渇したからではない、もっと深い意味が存在しているのだ、と。そんな手法が二十年経った今もなお通用すると思っている。実際ある程度通用しているけど。アニメファン相手に。
 しかしアニメから逃げて特撮に来るとは、ずいぶんと度胸がいいことだな。特撮ファンはアニメファンほど甘くないぞ。

佐藤健太の問題発言

 佐藤健太氏(『高速戦隊ターボレンジャー』のレッド・炎力を演じた役者)の3月29日のツイートから。

ニンニンジャー♪ 来週からも楽しみだなぁ〜♪ 純粋な気持ちで 今後の展開と♪ 役者の皆さんの成長が楽しみですね♪ ネット社会によって 滑舌がどーの・・ とかあるみたいだけど そんな事 子供たちは まったく気にしていない訳で♪( ・∇・) 毎回楽しみに見ています♪(強調は引用者)
 こういうのを見ていると、今の若い人というのは大変だなあと本当に同情する。
 若い役者が「子供向け番組だからこの程度でいいだろ」みたいな発言をしていたら、OBがそれを聞いて「子供をなめるな! 子供をだますということは、大人をだますことよりも難しいのだ」と叱る、それが本来の先輩−後輩の関係というものだろう。佐藤氏だってそうだったんじゃないのか。そして叱られた側の人間が、今度は自分が先輩の立場になった時、若い人たちを叱る側に回る、そうやって芸というものは伝えられてきたはずだ。それが今では先輩のほうが後輩に媚を売っている。
 そこまでして戦隊関係の仕事にありつきたいのか。
 ニンニンジャーの役者の人達はこんな周囲の雑音に惑わされることなく、芸の向上に頑張ってほしい。というか、西川俊介氏(アカ役の人)の問題は本当に滑舌なのだろうか。滑舌じゃなくて声質の問題だと思うんだが。滑舌ならそのうちにうまくなる可能性はあるが、声質というのは訓練で変えられるのだろうか。変えられなかったらそれこそ大問題。というか、こういうことのアドバイスが出来る人こそが「先輩」ではないのか。
 それにしても、である。
 どうして私はインターネットをやるたびに、腹を立ててばかりいるのだろう。なにかブログのネタはないか、誰か問題発言をしている奴はいないか、と鵜の目鷹の目で探しているわけでは全然ない。なにか面白いことはないかと思ってネットやっているのに、なんでこういつもいつも不愉快なニュースばっかり簡単に出てくるのだ。おかげでこのブログ、ネタ切れに苦しんだことがない。なんとかしてくれ。
 私は本当は早いところ戦隊マップの改訂版に取り組みたい。

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