女性アクション映画(大人向け)のお寒い状況(後)

前回からの続き)もう一つのやり方は、清純派アイドル映画にしてしまうことである。実際、当時の志穂美悦子には当時そういうイメージがあったし、女性ファンの方が多かったくらいである。エロな雰囲気を作品内に持ち込んだりしたら、そっちのほうが総スカンをくらったこともある。ところがアクション映画である限り、「エロと暴力」のうち、前者はともかく後者については当然のことながら排除することはできない。ヒロインが敵にとらわれ逆さ吊りにされ痛めつけられているにもかかわらず、敵の男のうち誰一人としてヒロインを裸にしようともしない、それどころか性的な視線を浴びせることすらしないという、ものすごく不自然な事態が出来する。もちろんそれを「お約束」だとして了解した観客にとっては十分に楽しめる映画なのだろうけど、戦う女性の抱く心理の綾や襞の描写に何の期待も持てないことについては、ピンキー・バイオレンスと何の違いもない。
 と、そのように考えた場合、かつて戦隊シリーズがなぜかくも魅力的なヒロインを毎年毎年送り出すことができたのか、分かるのではないか。要するに、ここは「エロと暴力」の邪悪さ渦巻く世界だということを、あからさまではないにせよ、ほのめかすような描き方をすることによって、なお正義のために生きるヒロインは、その気高さと清らかさが引き立てられたのである。そして最近の戦隊シリーズにおいて、まともなピンチシーンが描かれなくなっていったことと、ヒロインの魅力が少なくなっていったことは無関係ではないだろう。

 さて、冒頭にかかげたのは『戦う女たち』という本である。これは日本の女性アクション映画についての、八人の論客による論考集である。そして編者は、戦隊ヒロインについて、一章を割こうという発想もなかったようだ。「ジャリ番」としか思っていなかったからだろうけど。そしてその結果として、資料的価値は別にして、考察や論考という点に関しては、何一つ読む価値のない本が出来上がったわけである。戦隊ヒロインをずっと見続けてきたような人間にとっては、だが。
 高尚な文芸作品よりも、大衆に寄り添った低俗な作品のほうこそが映画の王道だ、などと言う評論家や研究者は最近多い。女性アクション映画などという、それ自体いかにも低俗という雰囲気の漂うジャンルを扱った本が出版されるという事実がそれを裏付ける。しかしそういう人たちですら、子供向け特撮ヒーロー番組なんてのは、視野の外にあるようだ。

女性アクション映画(大人向け)のお寒い状況(中)

前回からの続き)戦うヒロインのピンチが、レイプをイメージしていることについては、今さら言うまでもない。
 「エロと暴力」。キャラクターに実在感を吹き込む二大強力ツールである。しかし子供向け番組でそんなもん露骨に出すわけにはいかない。だから仄めかしという形で行なう。苦痛の喘ぎ声もセックスの喘ぎ声も、聞いている分には似たようなものである。正義のヒロインが敵の攻撃を受けて悶え苦しんでいるのを見て、ひとたび敵の手に落ちれば、女の戦士は男の戦士よりもはるかに酷い目にあわされるであろうことを、視聴者の子供たちは漠然と感じるのである。であればこそ、なぜ女が戦うのか、その理由についてしっかりと作中で描くことが求められる。筋力や体格では男に比べて圧倒的に弱い女の身でありながら、一体どのような経緯で正義の戦士となる決意したのかということを。
 実際、戦隊シリーズにおいては「強化スーツ」が常連アイテムである。これを装着することによって、女であっても十分なパワーを持つことができる(ただし男と完全に同等ということはない)。またそのスーツを着るための適合性というものがあって、特殊な家系の出身であるとか、未知のエネルギー波を浴びたとかいう設定がある。子供向け番組だと侮っている人には信じられないことばかりであろうが。
 戦いは男の仕事だと一般には考えられている。そしてその考えを容れた上で、自分は女であることを捨てて戦士としての道を歩む決心をしたのか、それとも「戦いは男の仕事」という考え自体を否定するのか。設定がきちんとしているからこそ、そのヒロインの心理について緻密な考察を行うことができる。
 ところが大人向けの作品であれば、そんな仄めかしに留めておく必要はない。もう最初からエロ全開である。そしてこんなエロエロな姉ちゃんがなんで刑事とか隠密とかになって、危険な任務についているのか、何の説明もない。お約束で済ます。そんな説明なんかする暇があれば、この半裸や全裸の姉ちゃんを一秒でも長く見たいというのが見る側の欲求である。
 ただし、そういうピンキー・バイオレンスと称される路線ばかりではない。大人向け女性アクション映画にはやり方はもう一つある。(続く

女性アクション映画(大人向け)のお寒い状況(前)

戦う女たち
四方田犬彦・鷲谷花(編)『戦う女たち――日本映画の女性アクション』

 『華麗なる追跡』(1975年、主演・志穂美悦子)という映画がある。正義のヒロインが悪党の屋敷に乗り込んだものの敵に捕らわれ鎖で縛られ、天井から吊るされてムチで打たれるんだか、そのシーンで敵のボスのセリフが

 そのうち裸にひんむいて犬にしてやる。鎖を引きずってな。永遠にこの屋敷で家畜となって生きるんだ。
 「そのうち」って何よ……。
 自分の命を狙いに来た女武道家を、あっさり始末するのでは面白くない、生かしておいて家畜として調教しよう、まあここまでは理解できる。だったら今すぐ裸にひんむいて、自我崩壊まで屈辱を与えるべきだろう。なんで着衣のままムチで打っているのだろうか。というか、この映画じたい何がしたいのか全然分からない。見終わって五分も経てば、どんな筋だったかも思い出せない、そういう映画である。
 志穂美悦子と言えば日本のアクション女優の最高峰である。顔、アクション、演技力のいずれも申し分なし。しかしその彼女の主演映画にはろくなものがない。別に脚本も演出も凝る必要なんかなくて、素直に彼女の女優としての魅力を引き出す画を撮ればいいだけの話だ。しかしそれすらできていない。まだ十分人気がありながら、1987年にあっさり引退しちゃったというのも、なんか分かるような気がする。

 女性アクション映画というジャンルがある。緋牡丹博徒シリーズ(主演・藤純子)、女囚さそりシリーズ(梶芽衣子)、女必殺拳シリーズ(志穂美悦子)と、全部東映だったりする。スーパー戦隊シリーズが魅力的なヒロインを次々と輩出することができたのも、その系譜を受け継いでいるからではないか、そういう方面からの分析も試みる必要がある……と思って何作か見てみたら、まったくの時間の無駄だった。話にならない。「子供だまし」という言葉があるように、一般的に大人向け作品よりも子供向け作品のほうが程度が低いと思われている。しかし、少なくとも女性アクション映画に関してだけは、子供向け作品のほうがずっと緻密な作りになっている。何なんだろうこの逆転現象は。
 やはりそこには「性」の描き方に対する姿勢の違いが関係しているような気がする。(続く

少しもダイナミックでない宇宙刑事本

宇宙刑事ダイナミックガイドブック

 宇宙刑事ファンは昔からなぜか戦隊のことを目の敵にするようなところがあって、あまり好きではなかった。しかし『宇宙刑事ダイナミックガイドブック』などという、中身スカスカの本を「大満足」なんて言っているのを見ると、もはやこの人たちはリングに上がる気はないらしい。宇宙刑事シリーズは過小評価されているなんて言っていたけど、それを正当に評価されることを求める気はもうないんだな。そう思うとライバルを失ったような寂しい気になる。
 過小評価なんて全然されてはいない、妥当な評価だ、と私は思う。高寺成紀氏みたいに「子供だまし」とまでは言わないけど、それほど革新的な作風というわけでもなかった。だいたい、たった三年しか続かなかったシリーズだし。メタルヒーローシリーズという言い方もあるが、あれは後付けであって、シリーズとしての一体性など存在しない。
 最近になって急に宇宙刑事が復活したのも、別に宇宙刑事の面白さが今の時代に必要とされているという判断があったからではない。以下は別に私の憶測ではなく、白倉伸一郎氏などが公言していることであるが、仮面ライダーシリーズとスーパー戦隊シリーズの人気が下がる中、第三の柱を打ち立てたいという目論見があり、じゃあ何にしようかということで、宇宙刑事が選ばれたというだけの話。別になんでもよかったのである。しかし一旦決まった以上は盛り上げなくてはいけないというので、80年代特撮の金字塔だの、不朽の名作だのと今更になって急に持ち上げ始めただけであって、だいたいそんなに名作なら、なんで今まで塩漬けにしていたのか、説明してみたらどうなんだ。あまりにも見え透いた手口に、さすがに宇宙刑事ファンも乗せられた人は少数派のようで、平成仮面ライダーを休止させて日曜朝に宇宙刑事を復活させろと言っていた連中も、さすがに今ではほとんど見かけない。
 それにしてもこの編集者の杉作J太郎という人、インタビュー下手だな。うまい人なら、相手をリラックスさせたり、また怒らせたりしながら本音をぐいぐい引き出したりするもんだが、しょっぱなから相手を不快にさせるなんぞ悪手もいいところだ。そして森永さん相手にパンチラのことで質問してやったんだぜーとはしゃいでる。中学生かお前は。(この本の中身に対する批判はいずれ)

これが平成ライダーのスタッフの本音なのか

語ろう!555・剣・響鬼

(フォーゼの時は)主人公がリーゼントってだけで、相当抗議の嵐が来ちゃったらしくて、それが恐怖症になっちゃったみたいなんですよ。だから抗議されそうなことは先回りしてやめるっていうのは徹底してました。(『語ろう!555・剣・響鬼』から、虚淵玄氏の発言より)
 『語ろう!クウガ・アギト・龍騎』を読んだ時も思ったが、このレッカ社のインタビュアーって実はものすごく優秀なのではあるまいか。平成仮面ライダーのスタッフというのは、どいつもこいつも手柄は自分のもの、失敗したら人のせい、と思っているみたいで、そのような隠された本音をぐいぐいと暴く手腕にはほれぼれする。ぜひ戦隊シリーズのほうにも来てほしい。
 虚淵玄氏にとって『鎧武』は会心の作ではなかったことは確実なようだ。しかしそれは自分のせいではなく、東映がダメだからであり、自分はその東映の方針に従って執筆を行なっただけだという主張をすることによって自分の名誉は守られると思っているらしい。たとえそれが本当でも、視聴者にとってはどうでもいい話だ。問題は完成した作品が面白いか面白くないかだけである。そしてスタッフ一同が面白い作品を作ろうと心を一つにしていない現場で作られた作品が、視聴者にとって面白いものであるわけがない。私自身は『仮面ライダー鎧武』は見たことはないし、一生見る気もないのだけれど。

 平山亨『泣き虫プロデューサーの遺言状』という本にも書いてあったが、『仮面ライダーX』で敵の組織に「G.O.D.」というのを出したら宗教者から抗議が来たなんてこともあったらしい。訳の分からないクレーマーというのは昔からいた。その上、ちょっと暴力的な描写を入れればたちまち東映やテレビ局の上層部から文句が来る。そういうのと戦いながら、仮面ライダーやスーパー戦隊はずっと作られ続けてきた。抗議に屈する時もあれば、はねつける時もあった。「おもしろい番組にするためには、この描写は絶対に必要なのです」と断固主張することによって。抗議されそうなことには先回りして全部やめてしまおうというのが今の東映の方針であるならば、そうやって作られたものがつまらない作品であることは、見なくても断言できる。

五十嵐五十鈴さん死去

所属俳優 五十嵐 五十鈴 儀 平成27年2月10日(火)永眠いたしました。(東京俳優生活協同組合のサイト
 久しぶりに 『ゴーグルファイブ』関係者の訃報に接した。第18話でのエリカの母親、第39話での母親(絵本の取り合いをしていた人)。検索をかけると、『ザ・カゲスター』『超神ビビューン』『ジャッカー電撃隊』『科学戦隊ダイナマン』『宇宙刑事シャイダー』『時空戦士スピルバン』『超人機メタルダー』『仮面ライダー BLACK』『仮面ライダー BLACK RX』『魔法少女ちゅうかなぱいぱい!』『特警ウインスペクター』『鳥人戦隊ジェットマン』『特救指令ソルブレイン』と、東映の特撮番組にやたら出演していた人のようだ(多分他にももっとあるはず)。といってもそのほとんどが、セリフが一つか二つだけで役名もないような端役であり、名脇役として評価されていたわけでもないんだけど。
 端役の人が死んだ程度のことでいちいち騒ぐな、と言われるかもしれない。しかし、特撮ヒーロー物というのは「絶対に正義だと信じられるもの」の存在を前提にして成立したものである。今はそんなものはない。にもかかわらず正義のヒーローを描こうとして、四苦八苦しているというのが今の時代である。しかし新しいヒーロー像は未だ全然見えてこない。そうこうしているうちに、古い時代を知る人が一人また一人といなくなっていく。焦るなというほうが無理だ(ちなみに、今の戦隊シリーズが玩具を売るためだけの番組になっているという批判も、以上のようなコンテキストを抜きに語ることは無意味である)。
 ちなみに現時点での『ゴーグルファイブ』関係者の物故者一覧。調べられた人だけ。
  1984 保富康午
  1985 田崎潤
  1990 相原巨典
  1994 大宮悌二
  1995 山田稔
  2004 相馬剛三
  2005 西尾徳
  2006 甲斐智枝美・仲谷昇
  2007 中江真司
  2010 大澤哲三・渡部猛
  2011 大前均・碓氷夕焼
  2012 鈴木昶・阿部征司
  不詳 鈴木和夫

戦隊シリーズにおける火あぶり(後編)

 (続き)『大戦隊ゴーグルファイブ』第39話「悪魔の人食い絵本」の話の筋自体は、私はそんなに好きではなかった。せっかく敵の戦士を生け捕りにしたのだから、人質にして利用するとか、拷問して聞き出すとか、色々使い道があるだろうに、もうデスダークの連中は処刑のことで頭がいっぱい。そういうのってリアリティがないような気がしたからだ。しかしそれこそ浅い考えだった。
 デスダークにとって桃園ミキはどのような存在なのか、色々考えていたら、人間にとってのゴキブリのような気がする(ゴキブリというのは実害という点では実は大したことはない)。そう考えると辻褄が合うことが多い。デスダークの連中にとっては、ミキの体に直接触れるどころか、あの澄んだ瞳に見つめられるだけで生命力が削られる思いがしたのではないだろうか。処刑法として火あぶりを選んだのも、できるだけ苦痛を長引かせたいというのもあっただろうが、それよりは汚物の消毒というイメージを感じさせる。
 ヒロイン絶体絶命のピンチからの大逆転というのに、ご都合主義的な不自然さを全く感じさせないのは、デスダークのほうが圧倒的な有利さにもかかわらず、最初から腰が引けていたからに違いない。
 戦隊シリーズにおける悪の組織第一号の黒十字軍は、「破壊と殺戮」をモットーにしているということ以外一切謎という組織だった。それが時代が下るにつれ、敵にも敵の理念があり、それを実現させるために合理的に行動しているふうに描かれることが多くなっていく。それが作品のリアリティを増すことになると思ったからである。ところが世の中というのは合理性だけで動いているわけではない。最近の悪の組織が昔に比べて怖くなくなったのも、その合理性以外の部分を疎かにしてきたからではないか。
 そしてそれが「イスラム国」の本当の脅威について、現在多くの日本人が理解しそこねている事実とつながっているような気がする(首相含め)。感情で動いている敵というのは、理性で動いている敵に比べて行動が読めない分はるかに恐ろしい。

戦隊シリーズにおける火あぶり(前編)

 『烈車戦隊トッキュウジャー』は見てなかったのだが、1月14日のエントリのコメント欄で第43話「開かない扉」(1月11日放映)について触れられていたので、その回だけ見たら、生きたまま焼き殺されそうになるというシーンだというのに「熱くなってきた……」とか言う彼らの額に汗の一粒もなく、ぶ厚い防寒着を着たままだというのは、これは一体真面目に撮影しているのだろうか、しかしまあ今のニチアサならこんなもんだろうと大して気にもかけずにいたら、その直後の2月3日に例の「イスラム国」がヨルダン軍パイロットを生きたまま焼き殺してその動画を公開したというニュースに接して考えこんでしまった。
 斬首や銃殺が残酷でないわけではない。しかしやはり火刑というものが持つシンボリックな意味合いは、他の処刑法とは格が違うという気がする。苦痛を長引かせるとか宗教的なタブーとかいう以上の。「汚物の消毒」というイメージというか、相手を人間とは思っていないという宣告というか。
 火あぶりに対して身の毛もよだつおぞましいイメージが存在しているということは、文化人類学的にも根拠があるような気がする。よく知らんけど。だからこそ、『大戦隊ゴーグルファイブ』の第39話「悪魔の人食い絵本」で、桃園ミキが絵本の中に閉じ込められて熱と煙にむせ苦しむシーンからは、この女の子がなぜ平凡な生活を捨てて戦いに立ち上がったのか、その決意や覚悟が強烈に立ち上ってくるわけだし、『トッキュウ』のこの場面も、なんとしても故郷の土地に戻って家族に会いたいというヒカリとカグラの決意を描く絶好のチャンスだったのではないか。それをなんでこんな緊迫感のないシーンにしてしまったのか、理解に苦しむ。セリフで説明したいのであれば、別にそれでも構わない。しかし極限状態における心理を描くつもりがないのであれば、極限状態なんか最初から出さなければいいだろう。(続く)

仮面ライダー俳優の勘違い

 仮面ライダーを演った俳優というのは、どうしてこうも変な人ばっかりなのだろうか。
 『仮面ライダーX』の神敬介を演じた速水亮氏のブログの2月2日のエントリ「情けない・・・」。

我々、仮面ライダーを演じた俳優は
正義という矜持を、少なからず日々の暮らしの中に
生き様の中に、持って生きている。

それが、正義の味方を演じた俳優の責任だ。
 連合赤軍かよっ!?
 まあ、まさか速水氏も本気でこんなこと考えているわけではないだろうが……。「正義という矜持を持って生きている」なんて、まともな分別を持った大人が言う台詞じゃない。怖すぎる。
 こうしている今も中東で、ウクライナで、ナイジェリアで、人々が殺し合いをしている。それに対して別に何かしてあげるわけでもなく、日本みたいな豊かで安全な国でぬくぬくと生きている人間に「正義という矜持」も何もないだろう。たかが過去に正義のヒーローを演じた俳優だという程度のことで、何を思い上がっているんだろうか、この人は。
 世界に広がる巨大な悪に対して、一人の人間など余りにもちっぽけな存在である。だから普通の人は気安く「正義」などという言葉を口にしない。いや、日本でも昔、世界の悪に対して本気で戦おうと勘違いした人たちがいて、そして彼らは「善意で舗装された地獄への道」を突っ走っていった。1970年代前半、つまり『仮面ライダーX』と同じ時代のことなんだがな。
 平山亨氏を筆頭に、仮面ライダーのプロデューサーはやたらと、ライダーは普通のヒーロー物とは違うんだとか言う。正義のために戦うのではなく自由のために戦うヒーローなのだとかなんとか。それはこのブログでも散々書いてきたことだけど、そのライダーを演じた俳優が、こんな幼稚な善悪観を自分のブログで披瀝したりしているのを見ると、一体何が「普通のヒーロー物とは違う」んだか。

畠山麦はなぜキレンジャーに起用されたのか

石ノ森ヒーローファイル

 チームメンバーの中でよりコミカルな役となったキレンジャー役には、当時石ノ森プロ(ママ)にいたマンガ家・すがやみつるの友人である畠山麦が抜擢された。ちなみに石ノ森は『ゴレンジャー』放映の前年に短編映画『フィンガー5の大冒険』を監督しており、この映画にはやはりすがやみつるの縁で畠山が出演している。
 『甦る!石ノ森ヒーローファイル』(2013年)という本を読んでおったら、『秘密戦隊ゴレンジャー』に関する記事がなんか変なのである。まるで、石森プロ所属の人間の友人という理由で、畠山麦氏がキレンジャーに起用されたかのような書き方。すがや氏が完全に無関係であったわけではないが(詳しい経緯はすがや氏のブログに)、起用された第一の理由は言うまでもなく、畠山麦氏のイメージがキレンジャーにピッタリだったからであり、なぜこんな不自然な記述をする必要があるのだろうか。
 現在のスーパー戦隊シリーズにはスタッフに石ノ森章太郎の名前はない。石ノ森テイスト皆無なんだから妥当な処置だと思うが、石森プロとしては面白くないと思っているのだろうか。だから、戦隊シリーズ第一作である『ゴレンジャー』には、石ノ森は単なるデザイナーではなく、キャスティングなどそれ以外の面でも作品の成立に深く関わったのだ、ということを強調することによって、スーパー戦隊シリーズの成功には石ノ森の才能が大きく貢献している、というような印象を広めようとしているような感じがする。
 しかしそういうのはもう止めたほうがいいと思う。氏の功績でないものまで氏の功績にすることは、石ノ森章太郎という作家の本質に対する理解を妨げることになる。そんなことしなくても偉大な作家であることには違いないのだから。だいたい、氏の作ったヒーローは孤独を愛する者が多い。石ノ森テイストと集団ヒーローなんて水と油みたいなものだ。
 じゃあ『サイボーグ009』はどうなのかと疑問に思う人もいるだろう。『009』のキモは001(イワン)である。脳改造された超能力を持つ赤ん坊は常に正確な判断を下す。残りの八人はその指示に従って戦うだけで、独自の判断で行動することはない。メンバー間の意見の対立や葛藤が生まれることはないし、そういうものをふつう集団ヒーロー物とは呼ばない。

 その点、仮面ライダーシリーズはある意味スッキリしていると言えるかも。石ノ森テイスト皆無であっても、石ノ森テイストを引き継いでいるというタテマエを守るということで、関係者一同合意がとれているんだから。

『トッキュウジャー』2月1日の休みは妥当だったのか

 『烈車戦隊トッキュウジャー』の2/1の放映が休みになったことについて、疑問の声が若いファンの間から上がっているようだ。
 あの日の7:30の時点では、新たな情報が入ってくる可能性などゼロに等しかった。ひと通り現在の状況について触れれば、あとはもう伝えることなど何もなし。何か局独自の分析があるわけでもなく、実際、中身スカスカの特番だったらしい。
 その余波で次作の『手裏剣戦隊ニンニンジャー』は、2/15に第一話放映の予定だったのが2/22に変更。玩具の販売戦略などにも大幅な変更を強いたはずだ。損害額は一体どのくらいになるのやら。
 正しい判断であったとはとても言えない。ただ、それでもやっぱりテレビ朝日を責めるのはちょっとどうかなあ、と思う。
 1985/12/28には『電撃戦隊チェンジマン』の第48話の放映が、中曽根内閣改造の報道特番で潰れた。別に意外な人物の入閣が取り沙汰されていたわけではない。派閥の順送り人事であることは国民誰も分かっていたし、一分一秒早く知ったところで、どうなるものでもない。なんでそんなもの放映する必要があったのか?
 報道番組の目的は、単なる情報の伝達ではない。要は、「我々は同じ日本人である」という事実を確認するための儀式であり、マスコミはその司祭なのである。俺たち日本人は今みんな同じ問題に関心を向けているんだ、という連帯感を味わってもらうための特番だったのである。そして今年の2/1の事件は、日本に対して宣戦布告がなされたも同然であって、当然日本人全員が興味を持つべきものであると判断し、テレビ局は使命感に基いて放映を決断したわけだ。

 テレビ朝日の失敗は、日本国民としての連帯意識も国政に関する関心も、今は1985年と比べてはるかに低くなってしまったことに、気がつかなかったことである。

戦隊シリーズの放映を休止させた特別番組一覧

嗚呼、懐かしき「イスラム国」

「後藤さん殺害」か:「イスラム国」の声明全文

 久しぶりに本格的な「悪の組織」を見たなあ。
 「我々はお前たちの血に飢えている」などという、「イスラム国」のベタベタな声明文を読んでいたら、そんなことを思ってしまった。
 スーパー戦隊シリーズに出てくる悪の組織は、1980年代頃まではこんな感じだった。交渉とか妥協とかいうものが入る余地は一切なし。こっちが滅びるか、あっちが滅びるかの二者択一。もちろん彼らにも言い分はあるが(サイクス・ピコ協定がどうとか)、それとこれとは別問題。世の中にはそういう存在があるのだ、ということを我々は子供の頃にスーパー戦隊シリーズを見て学んだのである、悲しいことではあるが。
 私が最近の戦隊シリーズを見ないのは、敵が全然怖くないからだ。なんか妙に人間臭くて親しみばっかり湧いてくる。ヒーローたちも正義のためとは言いながら、スポーツやゲームのような感覚で戦っているようにしか見えない。もっとも、そういうことを批判する気もなかった。昔は日本の近くに「ソ連」という国があって、核戦争の危機は、人類を絶滅させる可能性が本当にあった。それに比べれば今の中国や北朝鮮の脅威なんか屁みたいなもんである。冷戦が終わって人々が恐怖を味わわなくて済むようになり、その結果としてテレビ番組から悪の迫力が失われたとしても、そんなことで文句を言ってはバチが当たる……。
 と思っていたら、実は違っていたのである。世の中は全然平和になんかなっていなかった。単に日本人が無関心だっただけで、中東じゃあ延々ずっと殺し合いをやっていた。今回の事件も犠牲者がたまたま日本人だったからマスコミも騒いだし人々も関心を持ったに過ぎない。
 この事件をきっかけにして、日本人の意識も変わるのだろうか。いや変わらんだろうな。ニュースを見てたら、安倍首相は例によって原稿棒読みの抑揚のない声で「罪を償わせる」などと言っていた。この人はやたら口だけは勇ましいことを言うが、別に日本も戦いに加わろうと声を張り上げるわけでもなくて、やっぱり他の国に金をばらまいて何とかしてもらおうということらしい。改憲派の脳内お花畑度は護憲派を上回っている。そして圧倒的多数を占める無関心派。クソコラ祭りと自己責任論の横行は海外でも報道されて、「日本人は薄情」「冷酷」「不気味」というイメージが世界中で急速に拡散中だとか。

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