特撮番組に子役は本当に不要か?

 『天装戦隊ゴセイジャー』の第一話を見ていると、いきなり子どもが出てきたので「子役レギュラーの復活という噂を聞いていたが、こいつのことか」と思ってみていたら、そいつがレッドに変身したのでびっくりしてしまった。
 昔の特撮番組を見ていると、やたら子役が出てくる。子どもの頃にそういうのを見て、反感を持ったと言っている人は多い。彼らは、子ども番組だから子どもを出さなければいけないなどという安直な固定観念に当時のスタッフが捕らえられていたと批判する。そのため「少年隊員」などという、わけの分からない無理のある設定をこしらえていたのだ、と。だが、最近の番組を見るにつけ、確かに子役の比重は減ったが、まるでそれを補おうとするかのように、ヒーローたちがどんどん子どもっぽくなってきた。容姿もそうだし、性格設定もそうだ。そういうのを見るにつけ、子どもの興味を引きつけるには子どもを出さなければならないと考えた昔のスタッフの方が結局は正しかったのであって、「安直な固定観念」とも言えないのではないかという気もしてくる。
 アニメでは昔から、子どもがヒーローとして戦うという話は普通にあった。しかし絵に描けばいいアニメとは違って、実写でそれをやるのはかなり困難である。だから特撮ではヒーローはあくまで大人であった。視聴者である子どもたちがあこがれる対象、自分も大人になればあんなふうに強くてかっこよくなりたいと思わせる存在。しかしそうはいっても今現在は子どもである。無力で、大人たちに守ってもらわなければならない。正義感ゆえに無茶な行動をとったとしても、ヒーローの足を引っ張ることにしかならないのだ。そういう現実を視聴者に教え込む装置として、かつてのヒーロー番組における子役というのは機能していたのではないか。だから視聴者たちは子役を嫌ったのだ、と考えることはできないか?
 さて、現在のヒーローは以前に比べて、何も考えずにがむしゃらに突っ走るタイプが多くなった。あまり大人の責任とか使命感とかを感じるようなシーンも減った。「憧れ」よりも「親しみ」を、という路線はそれはそれでいいのだが、『ゴセイジャー』の第一話でアラタは、子どもに「悪いことをしたら謝らなければならない」と説教するという、大人としての役目を担っていた。にもかかわらず、そのくせ自分はカードをうっかり落としたり正体を人間に見られたり、そして大して反省している素振りも見せず、しかも仲間もそんな彼を「結果オーライ」などと言う。
 子ども型ヒーローにするのか大人型ヒーローにするのか、ちゃんと決めておいたほうがいいのではないのか。
 いいとこ取りというのはたいてい失敗するものだ。

Comments

Post a Comment








Track back URL

http://eno.blog.bai.ne.jp/trackback/170469

Trackbacks

Go to top of page