東映ほどファンを大切にする会社はない(悪い意味で)

東映ゲリラ戦記
 スーパーヒーロー大戦系の、戦隊・ライダーが大集合する映画のあまりの濫発ぶりに、東映というのはファンの気持ちを大切にしない会社だ、という声が巷に満ちている。しかしそれは言いがかりであると、声を大にしていいたい。
 そもそも、柳の下にドジョウがいれば、十匹でも二十匹でも捕りつくさずにはおれない、それが東映魂である。それが顰蹙を買いトラブルの種をまき「義理欠く恥かく人情欠く」の三かくマークと陰口をたたかれる原因ともなる一方、大衆の求めるものは何かと常に血眼になって探しまくる、そのバイタリティが映画作りの原動力になっていたのもまた事実である。
 こういう考えに私が至ったのも、東映の歴史についての本を最近ずっと読みあさっていたからである。時代劇もヤクザ映画もポルノも、ずっとそういう姿勢で作り続けてきたわけだ。そして今の戦隊・ライダーもまたその東映の血を濃厚に受け継いでいることは明らかである。ただし、ずっと小粒化した形で。
 最近で言えば『仮面ライダー大戦』(2014年)。ファン投票をするとか言い出した時に、非難や落胆の声が上がったのは、手口の余りのセコさからだ。これが昔の東映であれば、昭和ライダーと平成ライダーが最後の一人になるまで徹底的にブチ殺しあう、それくらいのことはやっていたはずだ。今のサラリーマンプロデューサーにはそんな決断なんか下せるわけがない。適当に両者に花を持たせるような結末は、最初から目に見えていた。こんな安っぽい手口に食いつくのはネットイナゴくらいのものだろう。そんなに客を呼びたいのなら、吉永小百合を悪の女幹部役で呼ぶくらいのことはしたらどうなのか。嗚呼、豪放磊落、破天荒の伝統はどこに行った!
 1980年代の戦隊ヒロインがあれほどまでに輝いていたのは何故か。女の人も男に守られているばかりではなく、きちっと戦っていくという所を子供たちに見せたい、などという思いがあったのは事実である。しかしそれは一面であって、女の子にミニスカはかせてキックさせたいとか、縛られて地面にのたうち回ってヒィヒィ悲鳴をあげる女の子を撮りたいとか、そういうギトギトした欲望が裏になかったとは言わせない。上品さと下品さは表裏一体のものだ。今じゃ坂本浩一程度で「エロ監督」とか呼ばれてるんじゃなあ。
 エロだろうがグロだろうが、大衆はこういうものを求めてるんだと思えば何でもかんでもガツガツ喰らいつき、骨までしゃぶる。かつて東映が持っていた猥雑で下品なパワーはすでになく、かといって高尚な芸術理論なんかもともと持ってる会社ではない。ファンの期待に応えねばという気持ちだけは依然として旺盛だから、結局やってることがどんどんチマチマしてくる。

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