平成の次に来るヒーロー?(後編)

 (承前)最近のスーパー戦隊を見て感じる最も大きな違和感は、ヒーローたちがまるで好きで戦っているかのように見えることである。
 戦わない、という選択肢は初めからない。人類の生存を脅かす敵が、週に一体のペースで次から次へと襲ってくる世界である。死にたくないと思えば戦う以外ない。そうやって毎週戦い続けることが、やがては地上に理想の世界を実現させることにつながると思えばこそ、ヒーローたちはいかなる困難さにも耐えることができた。かつては。では現代のように理想を口にすることが難しい時代において、人は一体いかなる動機で戦い続けることができるのだろうか? 賽の河原ではないのか。
 そこでその動機の不足を補うべく考えだされたのが、戦いそのものを楽しむことである。確かにこれはうまい手である。
 ただ、「戦わねばならないから戦う」と「戦いたいから戦う」のハイブリッドの時代を経て、その傾向がさらに亢進すると、ヒーローたちはまるで後者が戦うことの動機の全てであるかのような様相を呈し、そうすると問題が露呈し始める。
 そんな戦いを、なぜ視聴者が応援しなくてはならないのか。
 もともと争い事が好きな性格ではなく、しかし、人々が安心して平和に暮らせるような世の中を作るためには、誰かが戦いを引き受けなくてはならない、そのような思いを胸に戦いに立ち上がった主人公というのであれば、もうそれだけで視聴者としては応援する気にさせられるのに十分である。しかし、好きで戦っているのであれば、まあ頑張ってちょうだいと思うだけである。ラストニンジャになりたい? 勝手になれば?
 クリエイターにとって、自分のために戦う主人公を描くのは、他人のために戦う主人公を描くのに比べてはるかに難度が高い。視聴者を惹きつけるためには、ラストニンジャになることが、主人公たちにとってよっぽどの切迫感のあることだというふうに描く必要がある。どうもこの5年ほどのスーパー戦隊を見ていると、戦いの目的は昔と違ってきているのに、ヒーローの描き方は昔のままをやっているような気がする。
 それとも今は過渡期であって、新しいヒーロー像を生むための苦しみの時期なのだろうか?

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