スーパー戦隊における「唯一絶対の力」(その4=完結)

 (承前)別にそれでも構わない、というのが一つの考え方としてある。演劇というのは役者の魅力を見せるのが第一であって、ストーリーなどどうでもよい。もう一つはやはりストーリーを重要とする考え方であり、その場合は当初の構想に反する五人の役者が集まったのなら、その時点であらためてストーリー自体を練り直し、しかるのちに五人のキャラクターを練り直す、という一段階多いプロセスを経る。

 年内に戦隊マップを完成させたかったのだか「戦隊マップの作り方」はなんとか完成させられたようなので、まあよしとしよう。
 戦隊を分類するにあたって注目すべきなのは「準備」である。つまり第一話で敵と初めて戦うという時点において、準備万端で敵を迎え撃つのか、それとも出たとこ勝負の戦い方を挑むのかである。戦士にふさわしい人間を探し、訓練を施し戦術を与える、つまり「発掘と育成」にどれほど手間を掛け、そして成果を上げたか。それは「無限に時間があれば」と仮定して、それと比較して算定する。ここで注意すべきなのは、後者が前者より劣った戦い方ではないということ。
 そして次に、その準備がチーム本位でなされたものなのか、それとも個人単位なのかである。どのような戦法で戦うかが最初に決まっており、それに適合する五人を選ぶのか、それとも優れた能力を持った五人の戦士を探すのが先決であり、戦術は後で決めればよいとするのか。たとえば『超新星フラッシュマン』では五人は別々の星で育てられ訓練を受けたということになっているが、見過ごされがちではあるがこれは極めて重要な設定である。もちろん最低限の情報の交換はなされていたに違いない。
 さてネットを色々見て回っていると、「戦士はどのように選ばれるのか」に着眼して戦隊シリーズを分析しようと試みている人は、私以外にも大勢いるようだ。心強いことである。ただやはりそこで(私を含めて)つまずきの石になっているのが、そもそも理由なんかなくて戦士に選ばれてしまったケースをどう考えるかである。典型的なのが『救急戦隊ゴーゴーファイブ』において、なぜ家族だけで戦うということになったのか、明確な理由はどうも存在しないようだ。家族だけで戦いたいから家族だけで戦っているようであり、それは1970〜80年代のスーパー戦隊の感覚からは決して読み解けないものである。

Comments

Post a Comment








Track back URL

http://eno.blog.bai.ne.jp/trackback/217406

Trackbacks

Go to top of page