スーパー戦隊における「唯一絶対の力」(その2)

 (承前)1997年の『電磁戦隊メガレンジャー』が、戦隊の歴史において特筆すべき作品であるなどと評価されることは滅多にない。
 確かに、敵の襲来が予想よりも早かったために、仕方なく五人の高校生を戦士に選んだ、という設定自体はよくあるものである。しかし久保田博士は決してこの五人を、当初の予定に比べて劣っていると考えてはいなかった。彼らの若さの可能性に賭けると、第2話で言明している。だから、久保田は彼ら五人を教え導く立場にありながら、逆に彼らから教えられることも多かったのである。
 翌年の『星獣戦隊ギンガマン』になると、戦士としての実力は明らかにヒュウガがリョウマより上とされている。ヒュウガが復帰してもなおリョウマは戦士を続けたいと言ったことに、何か合理的な根拠はない。「俺は戦いたいんだ」、それだけである。従来の作品であれば、「潜在能力ではリョウマの方が上かもしれない」などと匂わすような描き方をしたであろうし、そうしていれば『ギンガマン』は本当にただの凡作になっていたことは間違いない。
 つまりそれまでは、理念が先にあって、現実はそれに従うべきものであった。こういうやり方で敵と戦う、という戦法が先に決まり、それに適合するような能力を持った人間を選んで訓練を施して戦士にするのである。逆のケースも場合によってはあったが、それは止むを得ない事情の結果であった。しかし『メガレン』『ギンガ』を経て、戦隊シリーズにおいて「理念→現実」と「現実→理念」は全く対等のものとなったといえる。
 比喩を用いれば、理念がレシピで現実が食材である。食事を作ろうと思ったら、カレーの作り方しか知らないのに、冷蔵庫の中にはダイコンやチクワしかない。解決法は二つ。一つは今から買い物に行ってカレーの材料を買ってくることであり、もう一つはダイコンやチクワに合う料理(おでん等)の作り方を今から習うことである。レシピに合わせて食材を調達するか、食材に合わせてレシピを調達するか。
 料理に喩えれば、別にどちらが上ということはないということは容易に理解できる。ところが日本人は「一つの不動の信念を貫く」と言うと、なんかものすごく立派なことのように考える風潮があり、それが冷静な議論を困難にしている。それが単に「レパートリーの少ない料理人」と同じようなものでしかなくても。(続く)

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