仮面ライダーと原発(後編)

 (からの続き)仮面ライダーシリーズの原作者が石ノ森章太郎だというのは、単に名義上のことだということは、ファンであれば誰でも知っている(平成だけじゃなくて昭和も)。少なくともテレビ版では石ノ森氏はスタッフの一人でしかないし、その名を原作者に据えることに、何か深い考えが最初からあったとは思われない。しかし『仮面ライダー』が予想を超えた大ヒット作になることによって、妙な事情を抱え込むことになってしまった。
 『仮面ライダー』が東映時代劇の血を受け継いでいることは、しばしば指摘されている。大衆に一時的な慰安を与えることこそ使命であり、深いメッセージ性など不要。ただ平山亨プロデューサーを筆頭とするスタッフが、そのことを誇りに思っていたかというと、そういうわけでもない。世間では高尚な文芸作品に比べて大衆娯楽作品は劣るものと見なされていたし、それに対するコンプレックスはぬぐいがたく存在していた。だからこそ石ノ森章太郎という有名なマンガ家を原作者としてクレジットし、『仮面ライダー』が大ヒットしたのは改造人間の孤独であるとか正義と悪の同根性とか、深いテーマ性があったからこそなんだ、などというスタンスを対外的に取り繕う必要があったのである。実際は仮面ライダーって言われるほど孤独でもないんだが。そういった本音と建前の二重構造を打破しようという努力が平成ライダーのスタッフによって試みられもしたが、実を結んだとは言いがたい。結局は毎年新作が発表される度にスタッフ一同「石ノ森先生の遺志を継いで……」みたいな白々しい発言をするのが今でも慣例になっている。
 そしてそれは戦後の日本の歩みと奇妙に一致している。人命も美しい国土も伝統文化もすべて犠牲にし、金儲けだけが正義と国民一丸となって突っ走った結果が、戦後の奇跡的な経済成長であるというのは今さら指摘するまでもない。そしてその後ろめたさが、今さまざまな局面で日本社会に軋みを生じさせている。原発もその一つに過ぎないし、そして平山亨氏の原発に関する発言をその文脈に置いた時、その意味の深さも思い知れるであろう。

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