平成宇宙刑事とは何だったのか(後編)

ギャバン・ファンコレ

 (承前)宇宙刑事シリーズというと、東映特撮ヒーローのピンチを救った作品だと思っている人は多い。実際書籍にもそんなことが書いてある。たとえば吉川進プロデューサーは『宇宙刑事大全』(2000年)で

 『ギャバン』が始まる直前の81年というのは、東映ヒーロー存続の大ピンチだんたんですよ。私が東映テレビ部のキャラクター作品を担当する企画営業第二部部長に就任したのは78年なのですが、その後、東映ヒーロー危急存亡の危機が2回ありました。
 1回目は78年の末。〔中略〕そして2度目が81年というわけです。
 「だんたんですよ」というのは原文ママ。ところが同じ吉川プロデューサーが、以前は全く異なる発言をしていたことを知っている人は少ない。『宇宙刑事ギャバン(ファンタスティック・コレクションNo.41)』(1984年)では
 このようにいつも、悲愴な感じで、背水の陣の中で東映キャラクター路線の命脈を保ってきたのですが、それらの場合〔75年と78年の危機のこと〕と大きく違って製作本数が一本増えるという、積極的にして、前向きの考え方のなかに、〔「ギャバン」の〕企画が成立したのです。
 「ゴレンジャー」や「スパイダーマン」が、あとのない厳しい環境で製作した作品であるとするならば、「宇宙刑事ギャバン」は、日本晴れの青空の環境で製作された作品であると言えます。
 78年が危機というのは事実。75年が危機というのも意味不明。
 実のところ『ギャバン』はそれほど大した作品ではない。少なくとも東映としての認識はそうである。ただ東映特撮としては戦隊と仮面ライダーの二つだけに頼りっきりというのも心もとないし、宇宙刑事シリーズをプッシュしようという動きが間歇的に出てくる。しかしハッキリ言って『ギャバン』にはそれほど画期的なインパクトがあったわけではないから、その結果宇宙刑事が東映特撮ヒーローの危機を救ったという歴史が捏造されたのである。
 宇宙刑事ファンは、宇宙刑事シリーズが不当に低く扱われているかのように思っている人もいるようだが、そんなことはない。現状の扱いは妥当である。そして東映が商売の都合によって持ち上げたり下げたりし、その度にファンは付き合わされ一喜一憂させられる。そういうのをずっと繰り返してきた。
 こんな歴史はいいかげんに断ち切られるべきではないか。

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