ガス抜き、時代劇、特撮ヒーロー(前編)

あかんやつら

 仮面ライダーやスーパー戦隊など、特撮ヒーロー物において東映が断然面白いのは時代劇の血を引いているからだ、などということがよく言われる。
 数々のヒット作を生み出した平山亨プロデューサーは元々は京都で時代劇を撮っていた人である。当時のエース監督・松田定次氏に助監督として仕えていた時、大衆娯楽作品を作るノウハウを徹底的に叩き込まれ、後年東京のテレビ部に移った際にそれが生かされたというわけである。

「先生、あんなのないですよ」と笑う平山に、松田は諭すようにこう答える。
「平ちゃん、君は大学を出てるからそういうけどね。僕はね、小学校しか出てないんだ。僕と同じような人たちが集団就職で都会に出てきて朝から晩まで働いて日曜にその疲れを癒すために僕の映画を観に劇場に来る。彼らにとって入場料は安くない。その時に神様みたいに千恵蔵が〔ピストルの弾を〕よけると、凄い、と思ってスカッとして、月曜からまた働く意欲がわいてくるんだよ」
  ――春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』より
 ただ、違うところも多い。
 松田氏の教えというのは、要はヒーローの描き方にリアリティなんか要らんということである。片岡千恵蔵の演ずるヒーローが、至近距離からピストルで撃たれてもヒョイヒョイよける。なぜそんなことができるのか。説明なんぞ不要。だいたい正義のために戦うヒーローなどというものが、現実には存在しないことは、観客にも分かりきっている。である以上、そんなところに突っ込みを入れるのは野暮というものだ。
 そしてそうやってワンパターン化していった時代劇は、やがて老人だけが見るものへと特化していき、衰退への道をたどっていく(という論を春日太一氏は後年『なぜ時代劇は滅びるのか』で展開することになる)。
 しかし特撮ヒーロー物は違う。見るのは幼い子どもたちだ。そして人生の先の見えた大人とは違って、子どもにとっては「正義のために戦うヒーロー」の存在は決して絵空事ではない。現実に存在するものなのである。(続く)

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