勧善懲悪で何が悪いのか?(中編)

ガンファイターのび太
藤子・F・不二雄『ドラえもん』「ガンファイターのび太」

(承前) 結局のところ、迷子になった森の中から脱出するためには、二つの視点を同時に持つことが絶対に必要ということになる。一つは、崖とか沼とか目の前にある危険な地形を避けるという、短期的視点。もう一つは、迂回しつつも全体の道筋としては北へ向かうという、長期的な視点。そしてそれは現実の人生でも、フィクションの中のキャラクターでも同じことである。
 今ここでは向かう方向を「北」にしたが、別に北であることに根拠は必要ない。東でも南南西でも構わない。一つに決めさえすれば、どこでもいい。肝心なことは、「北」と最初に決めた以上は、途中で困難な道が延々と続き、「やっぱ東に向かったほうが良かったのかな」という気持ちが沸き上がっても、決して変えないということだ。
 「百人いれば百通りの正義がある」などと言われる。多分そうだろう。しかしたとえ「絶対的な正義」が存在しないというのが事実であっても、絶対的な正義というものが存在すると仮定した上でしか人間というものは生きられないというのも事実である。人間はそのような矛盾の中でしか生きられない。短期的な視野しか持たない人間というのは、つまりその日その日を楽しく暮らすことだけしか頭になく、一切の理想も正義も信じずに生きることであるが、絶対不可能とは言わずとも、それはそれでものすごくキツイ生き方のような気がする。
 人間の数だけ正義があるとして、じゃあ自分はこの正義に従って戦うんだ、という選択を、どのような覚悟と決意に基いて採ったのか、ヒーロー物の主人公は視聴者の前に明らかにする必要がある。A星とB星が戦争をしていて、主人公が単なる思いつきで片一方を正義、片一方を悪と決めつけて星間戦争に加担したりする、そういう勧善懲悪劇はやはり「くだらないもの」と見なされても仕方ないだろう。そういえば藤子・F・不二雄『ドラえもん』には「どっちも自分が正しいと思っている。戦争なんてそんなもん」という名言があったりするが、連載も後期に入ってのび太が「正義のため」などと口にしていたのにはさすがに驚いた。
 ところでその山の迷子の比喩での「短期的視野と長期的視野」という概念、これは戦隊の分類に使えそうな気がする。以前書いたので言えば、短期的視野が右翼、長期的視野が左翼ということになるのだろうが、右翼左翼という言葉はやっぱり手垢がつきすぎて、やっぱり使いにくい。(続く)

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