ヒーロー番組に残虐描写は必要か(後編)

 (承前)『仮面ライダークウガ』を通して見て、私の場合は未確認生命体に恐怖感や緊迫感を感じたのは前述の二話しかなかったのだが、その理由について色々考えていたら、あのテロップがよくなかったのではないか。「荒川区 11:28 p.m.」とか画面にしょっちゅう出てくる、あのやつ。
 あのテロップが画面に出てくるたひに、ああこれは東京の話なのだ、東京以外の人間にとっては関係のない話なのだ、と無意識に刷り込まれていたような気がする。
 現実の話、シリアやイラクでは毎日何百人という単位で人が殺されている。しかしそんなことは日本ではニュースにもならない。ところがそこに日本人が一人でも含まれていれば、上を下への大騒ぎだ。自分にとって何の接点もない人間が百人殺されることよりも、接点のある人間一人が殺されることのほうが激しい興奮を呼び起こす。いいとか悪いとかいう問題ではない、人間とはそういうものである。
 現実に起こっている殺害事件ですら赤の他人の興味を引くのは簡単なことではないのに、ましてやテレビドラマで殺されるのは架空の人物である。実在感を視聴者に対して感じさせるのは、口で言うのは簡単だが、要求される技術の難度は非常に高い。
 『クウガ』は一体何を考えてあんなテロップをいれたのだろう。
 日本国民は誰でも東京に興味を持つのが当たり前とか考えていたのだろうか。

 私とて決してテレビの表現規制の問題を軽く考えているわけではない。ただ問題にするからにはフェアな態度で取り組まねば説得力はない。たとえば鈴木美潮氏という人も、最近のヒーロー番組については不満を感じているらしくて、著書でもそのことに一章を割いている。しかし最近のヒーロー物がつまらないとしたら、それは外部的要因と内部的要因があるはずだし、外部的要因、つまりテレビの表現規制やスポンサーによる過剰な販促要求については饒舌に語っておきながら、内部的要因、つまりスタッフやキャストの技量や情熱が昔に比べて落ちている可能性については触れもしないというのでは、説得力も何もない。
 「昔は良かった」などというと、たちどころに「懐古厨」などとレッテル貼りをして意見を封殺しようなどという風潮もある中で、「現場の末端のスタッフは一生懸命頑張っているんだ、悪いのはテレビ局やスポンサーのお偉方の連中だ」という言い方は確かに受け入れられやすい。しかしそれはそれで狡いやり方ではないのか。

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