なぜ『チンプイ』は完結しなかったのか(その4=完結)

劇画オバQ

 (承前)『劇画・オバQ』という作品がある。
 『新オバケのQ太郎』の最終回でオバケの国へと帰ったQちゃんが、十五年ぶりに人間界へやって来て、大人になった正ちゃんと再会する。テーマは「子供時代との訣別」。しかし、大人といっても、素敵な大人もいれば、つまらない大人もいるはずだ。一体ここまで正ちゃんをつまらない大人にする必要があったのだろうか。あまりにも夢のない話になっていて、ファンの中には「これを正式な後日譚とは認めたくない」と言う人もいるらしい。気持ちは分かる。
 大人になるということは、悪いことばかりではないはずだ。しかし藤子F先生にはそんな話は描けなかったのだろうか。
 もし当初の予定通りの『チンプイ』の最終話を描いておれば、同じようになっていた可能性は高い。しかし描かなければ「もし描いていれば感動的な最終回になっていたかもしれない」という言い訳の成り立つ余地がある。実際ネットで『チンプイ』ファンの声を拾っていると、その作戦は成功したように見える。かくして名声に傷がつくのは避けられた。
 藤子F先生は『チンプイ』という作品に愛着がなかったわけではないだろう。ただ利害打算がそれを上回っただけの話である。

 「『ドラえもん』をやめさせてくれないんだ」
 生前、藤子F先生は家族に向かってそういう愚痴をこぼすことがあったらしい(ソースは『藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版 7』収録の藤本匡美「父の持論」)。といっても別に小学館から暴力的な恫喝を受けていたとかいう話ではあるまい。自分はもう財産も名声も十分に得た、あとは本当に自分の好きな仕事だけをしたい、というふうに腹をくくったなら、編集者だって無理じいは不可能だったはずだ。ということは、それほど切実な苦悩でもなかったのだろう。
 そして『ドラえもん』の原稿を描きながら机に突っ伏して死んだ。
 藤子・F・不二雄はまぎれもなく日本史上屈指の偉大なクリエイターである。その人ですら、カネや名声のための仕事か、本当に自分のやりたい仕事か、どっちかを選ばねばならない時にどっちを選んだかを考える時、仮面ライダーやスーパー戦隊シリーズに関する今の東映の拝金主義を強く批判する気にはどうしてもなれないのである。

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